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【坐禅講義62】第三講: 中道の実践としての坐禅

 

こころの面での出来事に関しても同じ中道の態度で臨みます。

坐禅中には気分も 思いもその時々の坐禅の内容として確かに現われてきますが、坐禅そのものは気分 の問題でもなければ思いの問題でもありません。


坐禅の中ではどちらも妄想分別と して「坐断」していきます。

気分や思いを「坐りつぶす」のです。

普段は気分や思いに引きずられてついつい行動を起こしてしまうのですが、坐禅では坐相の力に助けられてそれに振り回されないで坐り続けることができます。

もっとも、「断」と か「つぶす」と言っても、気分や思いを相手にしてそれらを消してしまおう、なくしてしまおうと闘うことではありません。

気分や思い、煩悩が起こってくるのはやはり、自分の意志意欲以前の生命活動の発現、大自然の力の現われの事実なのですから、現われてきたものに眼を眩まされないでそれをどうこうしようとはせず、そのままにして正身端坐を骨組みと筋肉でねらい続けるのです。

妄情、妄想をそのままにして坐る、煩悩を邪魔にせずそのままにして坐る、これが「坐断」であり「坐りつぶす」ということです。

そこに煩悩があることはあるのですがそれが煩悩として意味をなさないというか煩悩としていつものように活躍できないような条件が坐禅にはそなわっているのです。

こういうあり方を「ありながらありつぶれ」と言います。ここには絶対的な許容(そのままにして)と絶対的な放棄(相手にしないで坐禅する)が同時に成立しています。

言葉の上ではこんなことは矛盾にしかなりませんが、坐禅という行においてはそれが実現するのです。

たとえば、怒りを坐断するというのはそういう感情をなくしてしまおうとするのでもないし、かといって怒りに呑み込まれて自分を見失うのでもありません。

怒りというのはいわば思いと感情が入り混じったエネルギーがアタマにのぼせ上がっている状態ですが、このとき怒りそのものには手を出さず、ただ正身端坐に努めていると重心が自然に下腹の方に降りてきます。

すると、怒りは怒りとしてそこにあっても「それほどでもない」、「どうってことはない」というゆとりが自ずからでてくるのです。

 




坐禅の姿勢によって生理的にのぼせが下がると、そのことでひとりでに心理的な変化が起き、体験する世界も同時に変わっていきます。

これが怒りの「ありながらありつぶれ」です。そのうちに怒りは活躍する場がないので自分の方から消えていきます。

どんな大きな怒りでも無常せざるをえないからです。

怒りを無くそうと外からわざわざ働きかけなくても、怒り自身の中に消えていこうとする潜勢力があるということです。

このようにして、坐禅の中で自然に怒りの底へ抜けていくということが起きるのです。

これは実際にそのような坐禅の工夫を通して実地に自得するしかありません。

坐禅はこころをからっぽにして何も感じず、何も思わないでボーっと恍惚状態になっていることではありません。

「無念無想」ということばをそのように理解している人が多いようですが、それは大きな誤解です。

全てを生命(生きている命)という地盤に戻して生命が純粋に生命しているのが坐禅です。

念も想も、熟睡中の息とおなじようないのちの働きとして(「思いはアタマの分泌物」内山興正老師)念や想を超えたところから立ち上がってきています。

無念無想というのは、現われてくる念や想にこちらから手を出していじくろうとせず、またつかもうともせず、浮かぶは浮かぶにまかせ、消えるは消えるにまかせている状態のことを言うのです。

こころに念や想が全く無い白紙状態ということではありません。

むしろ、無量の因と縁の結果として起こる念や想が自由に起と滅を繰り返している、にぎやかでカラフルな状態なのです。

ただ、そういう起滅する念や想の内容に振り回されないで、それら起や滅そのものを坐禅の風景として了了と黙って照らしているというのが無念無想なのです(ここで「黙って」というのは念や想の内容を言葉によって意味づけ、価値づけしないで、ということです)。

活潑潑地の坐禅においては、からだの面だけではなくこころの面においてもまた生き生きとした生命のプロセスが停滞することなく展開し躍動していなければなりません。

『ダルマの実践』(四季社刊)のなかのスティーブン・バチェラー氏の表現を借りれば、坐禅は「ちょこちょこと走り回る感情、さらさらと音を立てる着想、ぺちゃぺちゃとおしゃべりをする思考、チュッチュッとさえずる直観が住み着いて、それらと一緒に生きている一本の木」のようなものです。

そうした多くの 「小鳥たち」を枝にとまらせたり遊ばせたりしても、その重さに耐えかねて傾いたり倒れることのない、大地に深く根を張り地上にのびのびと大きく枝や葉をしげらせた大木のような坐禅をしなければなりません。

やってくる小鳥たちを喜んで受け入れ静かに堂々と立っている大木、それが大乗の坐禅のあり方です。

小鳥たちを一匹も寄せつけないように身構え、眼を光らせて、もし鳥がとまったらふるい落とそうとする木のようなあり方ではないのです。



正身端坐の営みがもたらす身心の平静さと明澄さがあってこそ、坐禅本来の生き生きとした活潑潑地のありさまが現実のものとなり、坐禅が自己の生命の純粋発現であることを証明することができます。

『坐禅用心記』にある「本来の面目を露す」とか「本地の風光を現す」というのはそのことを指しています。

坐禅中に考えごとや居眠りにふけるというのは、生き生きと流れ続け常に新鮮な現実(リアリティ)のなかにいながら、自分だけがそこから宙に浮いたようになって、過去の回想、未来の空想、意識の興奮状態かあるいはたそがれ状態のなかに迷い込んでしまうことです。

これは大きな川の流れのなかでそこだけ流れが渦を巻いて停滞しているような状態です。

坐禅の努力とは、そういう停滞状態をほどいて生命の平常な流れにたちかえっていくことなのです。

このたちかえりをアタマで考えるのではなく、身の構え、姿勢で事実としてやっていくのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.320〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》  

坐禅が問題にしているのは経験の中身を自分の都合の良いように操作すること(別な言い方をすれば、「いい経験をした」という自己満足を追求すること)ではなく、自分がいのちとしてただ存在しているという無色透明の次元に落ち着くことです。

この次元の違いをどう言い表せばいいのか、なかなか難しいところですが、例えて言うなら、

われわれが普段目を向けているのは地面の上に生えている木や植物で、無用なものやわれわれに都合の悪いものを取り除き、なるべくなら役に立つものやきれいなものばかりにしたいと思っています。

それに対して、坐禅は木や植物を生み出し、それが枯れたり死んだりしたらまた土へともどす大地に当たると考えてはどうでしょうか?

われわれの意識的生活は大地の上で営まれていますが、「心意識の運転を停(や)め、念想観の測量を止(とど)めて」(『普勧坐禅儀』)坐禅をしている時は、ことさらにしないでも大地そのものに落着しているわけです。

この違いをあらかじめよく理解しておかないと、坐禅をしながら、それが実際はいつまでも大地の上にあるものにとらわれた人間界の心理操作に堕してしまいます。 

 

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