【坐禅講義62】第三講: 中道の実践としての坐禅
藤田 一照 藤田 一照
2018/05/11 07:07

【坐禅講義62】第三講: 中道の実践としての坐禅

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「坐禅のなかの動き」というテーマで全身呼吸の脈動、体軸のゆらぎ、そして頭蓋 仙骨律動についてお話ししてきました。これまでのところ、活潑潑地(魚がぴちぴちはねるように生き生きとしているこ と)の坐禅の具体相を身体的な側面に注目して話してきました。


要するに、静かに じっと坐って何事も起きていないかのように見える坐禅の中には実はいろいろな身体的動きがあるということです。

もちろん、この動きは単に身体的なものだけに留まらず、それらとアンサンブルのような関係で、心理的な側面にも現われてきます。

むしろからだよりこころの方がよほど活発だと言えます。

たとえば一回の坐禅を坐る間にどのような感情を経験するかを記録してみたらどういうことになるでしょうか。

満足感、悲しさ、高揚感、憂鬱感、怒り、悦び、倦怠感、希望、絶望、慈愛、 性的興奮、焦燥感、......。

わたしの語彙が乏しいのでこのくらいしか例をあげませんが、まさに三十~四十分の坐禅の間に地獄から天界に到る六道を何度も何度も輪廻しているようです。



さらに、坐っている間に考えてしまったことをみんな記録していったら、きっと紙がいくらあっても足りないくらいの量になるでしょう。

それくらいこころは活動的で、じっとしていません。

人間のこころが馬のように走り回り、猿のようにせわしなく騒ぐことを仏教では 「意馬心猿」と言います。

そして、そのように動き回るこころを一処に留めておけ るように訓練するために様々な方法が考え出されています。

いわゆる精神統一法と か精神集中法と呼ばれているものです。

きゃんきゃんとうるさくほえながら走り回る子犬を調教して「お坐り!」ができるようにするようなイメージでしょうか。

子犬は最初、無理矢理坐らせて「お坐り!」と命じても、一秒もじっとしていないで すぐどこかへ行ってしまいますが、それを連れ戻してまた坐らせるということを辛抱強く繰り返しているうちにだんだんじっとしていられる時間が長くなって「お坐り!」を身につけるようになります。

こころも修行によって「お坐り!」ができるようになる、坐禅もそういうこころの調教法の一つだと理解されていることが多いのですが、それは大きな誤解です。

そういう方法は全て「習禅」と呼ぶべきで「坐禅」と混同してはいけないのです。

道元禅師はそのような営みを「息慮凝寂(思慮 分別を止めこころを一つの対象に集中すること)の経営」とよんで大乗の坐禅とは はっきり区別しています。



では坐禅はそれとどこが違うのでしょうか。

今回の講義で取り上げた、呼吸による全身の脈動、体軸のゆらぎ、頭蓋仙骨律動(CSR)は感覚的には心地よく魅惑 的なものですから、もしそれに重きを置きすぎると眼を奪われてしまい、ある意味 で惑溺状態になりかねません。

さらにはそれを目指して坐禅をするといった本末転倒なことにも繫がります。

そうなると坐禅からは完全に逸脱してしまいます。

坐禅中に起きる何かの現象を邪魔者・悪者扱いしてそれを抑圧したり消滅させようとするのも、またそれに圧倒され溺れたり引き回されたりするのも、われわれにはそう いう傾向がもともとあるのですが、どちらも坐禅として正しい態度ではありません。



釈尊がお城で送っていた快楽追求の生活も、また出家後に試みた苛酷な苦行生活も、どちらもバランスを欠いた極端に偏った不健全な生き方であるとし、「わたしはそういう二辺(二つの極端)に偏らない中道を見出した」と説き、そこから仏教が始まりました。

われわれの坐禅もあくまで中道のあり方をはずさないように行じていかなければなりません。

それにはまず、どのような体験も、さきほどの比喩で言えば「山下雷鳴」としてあること、ある条件のもとで生じた一時的で特殊なものであり必ず過ぎ去っていくものであるということ、したがって自分のものとして保存できるものではない(得るということがありえない)ことをよく知って、眼が眩まされないようにしておくのです。

血の通った活潑潑地の坐禅であることの証し、生命活動の発現としてそのような微細な動きが現われてきているのですから、それはそれとしてそのままにしておき、それをつかもうと追いかけたりせず、そういうことは全てやめて坐禅の姿勢にまかせ、一切を坐禅の風景として了了と(はっきりと)照らしているのです。

それがとりもなおさず、個々の体験の内容、中身に捉われるのではなく、それらを生み出している生命の地盤そのものに目覚めていることになります。

坐禅で大事なのはそこです。

一時的で特殊な体験に振り回されて姿勢をくずさず、重心を下に落とし体軸をまっすぐに保ち続けることに努めるのです。 

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.320〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》  

坐禅で大切なのは体験のコンテンツではなく、その体験を受け取る態度の方だということは、あらかじめ区別しておくべきポイントだと思います。

ともすると、われわれは自分にとって好ましかったり、都合の良い体験を求めがちです。

それは体験のコンテンツを問題にしている

態度です。

たとえ、「いい坐禅がしたい」という至極もっともな思いも、その根っこをよくよく探ってみれば、やっぱり自己満足を欲する気持ちの表れだということがわかります。

どこまでも自己満足を追求する癖がなくならない凡夫としては致し方のないことなので、それをやめろというのではありません。

それをやめたいというのもやっぱり自己満足追求の延長線上のことなのですから、どうにも手の出しようがありません。

だから、そのことをよーくわかって、だから手を出さないでいるだけです。

「ただわが身をも心をも放ちわすれて、仏のいへに投げ入れて」というのはそういうことでしょう。

禅の言葉で「背触(はいそく)ともに非なり」というのがありますが、背はそむくこと、触はくっつくこと。

そのどちらもダメだよということですか。

離れても、くっついてもダメ、じゃあどうするんだ?ということになります。

これを基本的公案として、刻々に稽古していくのが坐禅であり、それを日常においても拡張していくのが禅修行の道だったのです。

これは言葉の上で解決しても仕方のない、実地に行為の上で説いていくしかないことです。

 

 

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