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【坐禅講義60】第三講: 坐禅の生理学

 

「坐禅のなかの動き」というテーマで全身呼吸の脈動、体軸のゆらぎ、そして頭蓋 仙骨律動についてお話ししてきました。

これらの動きの他にも取り上げるべき動きがきっとまだあるに違いありません。

こうして見てくると、不動の姿勢といわれる 坐禅の裡には、様々な質を持った動きが豊かに同時に存在していることがわかります。

それは様々な質と拍子を持ったリズムが共存し同時進行しながら、お互いに影響を与え合い、一つの全体としてまとまりと調和を持って演奏されている交響曲のようです。

これは驚嘆するに値することではないでしょうか。

留意しておかなければならないのは、これらの生命的な動きは坐禅のときだけに限って存在しているのではなく、実は我々が生きている限り、いのちの証としていつでもどこでもそこにあるものだということです。 

 

そしてそれらの動きはわれわれの意識的・自力的努力によってことさらに作り出されたものではなく、「非思量」(思いを越えた大自然 の働き)のままに息づいているわれわれの生命活動の具体的現われとして自然に法爾に起きているものなのです。

ただ、坐禅というのはそういう大自然の営みに対して、われわれとしては無条件に「負けて、参って、任せて、待つ」(漢語の「信」に対応する大和言葉、野口三千三先生による定義)姿勢ですから、それらの生命的動きがより純粋で本来的なかたちとペースを持ってはっきりと現われるだけです。

もう一つ確認しておきたいのは、習禅ではない坐禅においては特定の対象に意識を固定し集中するという作業を敢えてしませんから、坐禅中にこれらの動きを意識的に捜し出しそれに注意を向け続けるのではないということです。



ただ、坐禅中は調身=調息のおかげで感受性が自然に研ぎ澄まされてくるので、普段の散乱した粗雑な身心の状態では気づけないけれども常に存在しているこうした微細な自発的運動にふと気づく確率、機縁が大幅に増えるだけのことです。

坐禅では意識はどこまでも受動的、受信的で待機していますが、思いにも捉われず眠り込みもせず、はっきりと覚めています。

坐禅でよく使われる言葉ですが、「覚触」というのはそのように、意識がきわめて澄んでいて、からだ全体を透明澄明に感受できている状態の ことを言います。

生きていることの現われとしての脈動、ゆらぎ、律動という微細な動きの様子が何かの拍子で向こうからそうした感受の網にかかってくるのです。

ですから、今回の講義で取り上げたような動きは、瞑想の「対象」としてこちらから追いかけていくものではなく、ただ淡々と誠実に正身端坐の努力をしているときにふとそれと気づくような、坐禅のなかの流れていく「風景」の一つ、あるいは来ては去っていく「訪問客」の一人として考えるべきなのです。

それに捉われて執着したり、引き留めようとしたりしてはいけません。

坐禅の中で起こることは、常識的に考えて悪いことでも、良いことでも、不思議なことでも、ものすごいことでも、面白いことであっても、なんであろうと、「どうってことない」という軽やかな受けとめ方をしなければなりません。

われわれは ともすると生命の働きの結果やその現われた姿形に眼がくらんで浮き足立ったり興奮してしまうのですが、坐禅ではそれらを生み出し続ける生命の働きそのものに目 覚めていることが大事なのです。



「大空無雲 山下雷鳴」という禅の言葉があります。

高い山の下の方では雷鳴が轟いているが、その雷雲の上に限りなく広がっている大空は雲一つなく晴れ渡っているという大自然の様子を描写したものです。

この句が言おうとしているのは、どのように深刻な、あるいは素晴らしい出来事であってもそれは全て「山下の雷鳴」としてあり、どのような暴風雨であってもそのことで虚空は少しも傷つかないし、どのような素晴らしい天気であっても虚空は舞い上がることはない、そして大空と雲や嵐、雷鳴のその全体がまるごと仏光明の世界としてある、ということだと思います。

大空が良くて雲、嵐、雷鳴が悪いというのではありません。

大空の空気の流れが対流圏を作り、そこに雲や嵐や雷鳴を生み出しているのですから、本来両者を切り離すことはできません。

他ならぬ大空のいのちの表現が雲であり嵐であり雷鳴なのです。

坐禅は山下の雷鳴、雲や嵐を拒否し排除することではありません。

拒否し排除しようとすることもまた雲や嵐なのですから、避けようがないし手の出しようもないのです。

ですから、坐禅は雷鳴、雲や嵐 を邪魔にせず、またそれに引き回されもせず、それらをそのままに活動させている虚空を行じることだと言えるでしょう。

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.317〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》  

坐禅中には、刻々に立ち上がって来る経験を起こるがままにしておくという、日常普段のあり方からすればラディカルなシフトが