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【坐禅講義57】第三講:体軸のゆらぎと左右揺振


スタシオロジー(身体静止学)という研究分野を開拓され、「足の裏博士」と異 名をとる平沢彌一郎(一九二三~二〇〇二)という方がいます。

かれは直立姿勢における重心のゆれを検出・記録する装置(ピドスコープ)を開発され、非常に興味 深い数々の知見を発表されています(『足の裏は語る』筑摩書房、『新しい人体 論』放送大学教育振興会など)。

たとえば、閉眼時は開眼時に比べて神経電図、重心図、筋電図ともに動きが激しいこと、左足の主軸性が大切であること、第五腰椎より上は主として前後方向の、下は左右方向のゆらぎを調整しているので第五腰椎周辺は安定点としての役割を果たしていること、立っているときの揺れのパターンにはいくつかのタイプがあること、呼気のときは前の方にゆらぎ、吸気のときには後ろにゆらいでいるということなどが実験データによって確認されているのです。

それらの知見はわたしかが坐禅について考える上で、貴重な参考資料になっています。

わたしはこの装置を使って、立っているときだけでなく坐禅中の重心の揺れに ついてもいろいろ調べてもらえないただろうかとずっと思ってきました。

「不動の中の動」の実態、重心の揺れ具合と坐相の正確度の関係、精神状態と重心の揺れとの 関係、坐禅による疲労度と重心の揺れとの関係といったことを実験データをもとに 明らかにしたいのです。

坐禅中の脳の活動に関する研究ももちろん興味深いものですが、こういう研究の方がよほど坐相そのものの解明に肉薄できるのではないかと思うからです。



坐骨というのは独立した骨ではなくて、解剖学的に言うと寛骨(骨盤の側壁と前壁を作る骨。腸骨・坐骨・恥骨が互いに癒合したもの)の後下部を占める屈曲した骨で、この部分は特に坐ったとき体幹を支えるのでこう呼ばれます。

体軸というのは、左右のそれぞれの坐骨の曲線上のどこかで上からまっすぐに落ちてくる体重を支えている点を結ぶ線分の中点を垂直に貫通している仮想的ラインあたりに感じられるからだの中心軸のことです。

もちろん、このようなラインは解剖学的な実体ではなく、身体感覚的にのみ存在するいわば主観的実在です。

ですから、それが感じられる人には確かにあるけれども感じられない人には無いというような代物です。

マジック・アイで見るときに限って見えてくる三次元の絵と同じで、こちらの感受性のありよう次第で、あったりなかったり、ぼやけたり鮮明になったり、となかなかつかみどころのないものです。

余談になりますが、空に現われる虹はどこからでも見ることができるわけではありません。

射してくる太陽の光に対してある角度を持った位置から見る人にしかその虹は現われないのです。

この人に虹がはっきり見えているときでもそれ以外の場所にいる人には虹は見えません。

つまり虹の有る無しはそれを見る人がどこにいるかということと無関係に論じられないということになります。

虹が見える位置を辛抱強く探すような感じで、内部感覚を頼りにしながら 体軸を探していきます。

こういう探索自体が正身端坐への道筋になります。

正しい坐相というのは体軸が最も鮮明に立ち現われているような姿勢と言えるでしょう。



さて、①で述べた全身の脈動は、下腹部のいわゆる丹田辺りを起点として波が三次元的にあらゆる方向に広がるように坐相の全体が柔らかい皮袋のごとく丸く膨らみ、弾力でまた元のかたちに戻るという動きを繰り返すという動きです。

この脈動は呼吸の働きによって出入りする空気の動きでそういう運動が起きているのでした。

それに対して、この体軸の揺らぎは回っている独楽が示す首振り運動のように、微小な揺らぎ運動を続けているのですが、これは重力との適切でバランスの取れた関係を維持し洗練していくため自然に起きている動きです。

高速で回転している澄んだ独楽は一見静止しているように見えますが、実は細かい歳差運動(首振り運動)をしながらバランスを回復しつつ回っています。

先ほどの平沢彌一郎氏は人 間の直立姿勢は「澄んだ独楽方式の原理」で成り立っているのではないかという仮説を提唱されていますが、わたしも坐禅の安定性は澄んだ独楽のような動的なバランスで成立していると理解すべきだと思っています。

全身の脈動にしても、揺らぎつつ立っている体軸にしても、自分が意識的にはからって動かしているのではなく、坐禅に「いのちが通っている」ことから必然的に出てくる自然な自発的運動です。

そういった、いわば生きている坐禅の「自律的運動」、「鼓動」、「息吹」、「息づき」ともいえる動きとしては、この他にも、たとえば心臓の拍動(とそれに伴う血液循環)に由来する動きをあげることができます。

自分自身の経験では、坐禅中に左胸のあたりで心臓そのものの拍動がことさらにはっきり感じられたりすることもあれば、組んでいる両手に拍動がはっきり感じられたり、あるいは時として全身がこの心臓の拍動のリズムでドキドキと脈打っているように感じられたりするときもあります。

動きとしてはとても小さいので外からその動きを眼で見つけることはできませんが、坐禅をしている当人の内観によって普段よりはるかにはっきりと鮮明に体感できる生命の基本的運動、リズムの一つです。


藤田一照著「現代坐禅講義」(P.303〜)より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》

生命には「生かされて、生きている」という独特の二重構造があります。

しかし、それを自覚できるのは多様な生命形態の中でもわれわれ人間だけかもしれません。

そういうことが可能であるということ自体が、驚くべき神秘だと思います。

そういう観点から坐禅を見てみると、「生きている」私が「生かされて」という側面を廻向返照している営みであると言えなくもありません。

生命が生命をしみじみと振り返っているということです。

人間の場合、生きているという側面が暴走して、生きていることの基盤である生かされてという側面が侵害される傾向があります。

過労死や環境破壊といったことを考えればそのことがうなづかれるでしょう。

そういう自己破壊的傾向への歯止め、カウンターバランスとして、生きている私は生かされているという事実を思い出す必要があるのです。

そういう文脈で坐禅を考えて見ることもできるのではないか。


坐禅自体は「生きている」ことにはなんの影響もないのかと言えば、そうでもないのではないでしょうか?

生きている私が生かされているという事実を本当に自覚できたら、自分の本当の姿を見ることでその行動は自ずと変容していくはずです。

少なくとも、より傲慢ではなくなるでしょう。

生きているという側面では個体的、分離的ヴィジョンですが、生かされているという側面ではエコロジカル(生態学的)なつながりのヴィジョンが生まれて来るからです。

この二つの側面のどちらにも偏らない中道的な生き方が仏教の教えるところだと思います。

道元の言う「自受用三昧(じじゅゆうざんまい)もそれを指しているのでしょう。

その具体的姿が坐禅なのです。


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