(前の記事)
【坐禅講義56】第三講:坐禅中の呼吸の風景

正身端坐して坐る姿勢は立つ姿勢に比べてはるかに安定しています。

立つ姿勢においては、地面に接する両足の裏によって囲まれている範囲がからだの重さを受けとめる基底面になっています。

立ったときの両足の広さは全体表面積の約1%くらいだそうですから、これはきわめて狭い着地面積だと言わなければなりません。

これに対して、坐禅の姿勢では、結跏趺坐によって両膝と尻の三点がかたちづくる三角形が基底面になりますから、着地面積は立つときよりもずっと広くなり、それだけ安定性が増します。

立つ姿勢を細長い円錐が頂点で逆さに立っているようなものだとするなら、坐禅は三角錐がでんと坐っているようなものだと言えます。

また、坐ることによって重心の位置が立っているときよりもだいぶ低くなることも安定度を増す要因になっています。

だから、ヒトが人たる基盤である重力場での直立姿勢、つまり「からだの主軸である体軸の直立」を最も安定的に実現する姿勢が結跏趺坐の姿勢なのです。



しかし、坐禅の安定性は死んだ物体の持つ静的な安定性とは質を全く異にしています。

重力によって鉛直方向に沿って常時下に引っ張られている重力場において生身の人間が背骨を立てて坐るのですから、いかに安定度の高い姿勢とはいえ、体軸を重力方向に沿って真っ直ぐに保ち全身のバランスを維持し続けるためには、刻々に起きるバランスのくずれを迅速に補正し調整するような動きが不可欠です。

ですから坐禅の安定性は動的でダイナミックな安定性なのです。

それは坐禅中における体軸が揺らぐような動きとなって現われます。



坐禅を開始するとき(終わるときにも行いますが)には、いわゆる「左右揺振」を行います。

これは、坐蒲の上にある尻の位置を動かさないようにして、頭-背骨を真っ直ぐに保ち、上体を一本の棒のようにゆっくりと左右に倒す(前後運動をいれても可)運動のことで、はじめ大きく深く倒す動きから段々小さく浅く倒す動きにしていき、七、八度動かしてもっともバランスが取れ安定しそうなところで静止します。

これは通常、左右揺振の前に行なう「欠気一息」(深呼吸)と並んで『普勧坐禅儀』にあげられている坐禅の前の大切な運動法です。

この運動は、筋肉・関節の凝りをほぐし、姿勢の無理や窮屈なところをのびのびさせる目的で行なうのですが、わたしはそれにもう一つつけ加えたい目的があります。



それは、大きな揺振から小さな揺振へと移行していく過程で、重力の方向に最も調和したベストな体軸の位置(「左へそばだち、右へかたぶき、前にくぐまり、後ろへ仰ぐ」ことのない、もっともバランスの取れた体軸の位置)を、身体感覚を手がかりにして発見するということです。

前後左右の揺振によって体軸をいろいろな角度に傾けながらさぐりをいれて、大きな揺すりから小さな揺すりへと絞り込んでいって、だんだんとその最適位置に接近し、最終的に一番落ち着きがいいと感じられるところで自分の体軸を静止させるのです。

この位置では体軸がどちらの方向にも傾いていないので、倒れないように筋肉を緊張させてつっかい棒や引っ張り綱にする必要がありませんから、リラックスできて独特の楽なニュートラルな感じというか体重がすーっと軽くなったような感じがあります。

「あっ、ここだな」という自分で納得のいく感じがあるところを丁寧に探してそこにたどり着いていきます。

ですから、この揺振運動は正身端坐へいたる道筋として重要な意義を持っており、あだおろそかに行なうべきではありません。

坐禅中は、今言ったニュートラルな感じを頼りにして、体軸をその最適な位置に保持し続けるようにして、そこからはずさないようにして坐ります。



しかし、実際にはこの揺振が完全に静止することはないのです。

意図的に行なう粗大な揺振運動はもはや行っていないにもかかわらず、微細な揺振運動が依然として余韻のように続いていきます。

それは、まさに「体軸のゆらぎ」というべき不随意的な動きです。

「左右揺振」を通して、ひとまず体軸を「ここが一番バランスが取れている」と感じられる位置に落ち着けることができたとしても、その後の坐禅中の身心両面における大小様々の出来事(たとえば、思いへの捉われ、感情的動揺、眠気の発生など)からインパクトを受けて、体軸は容易に動揺し変位します。

体軸の保持ということは、それほど微妙なことなのです。

厳密にいえば、体軸は、決して一箇所に固定的に留まることはなく、常に揺らぎ続けています。

だから、正身端坐を続けるためには、様々な理由による体軸のずれ→ずれの検出→ずれの補正という調整のための微細な揺振運動がいつも起こっていなければなりません。

体軸が正しい位置にあるときの感じがはっきり身についていれば、そしてそこからのずれに対する感覚が鋭敏であれば、そのずれの検出が迅速に行なわれ、姿勢の補正が速やかにかつ適切に行われるので、体軸のゆらぎは外目では捉えられないほど微小な範囲内にとどまります。

ウトウトしながら坐禅をしている場合(「昏沈」の状態)には、当然のことながら体軸についての感覚が鈍っているので、大きくずれてから初めてそれに気づき、修正することになるので、俗にいう「舟をこいでいる」ような大きな揺れになってしまうのです。

また思いを追いながら坐っているとき、つまり考えごとをしているとき(「散乱」の状態)にも、体軸の位置に関する感度が当然鈍くなるので、ずれの検出が遅れ、姿勢は大きく傾く結果となります。

「思い手放し」の姿勢ではなく「考える人」の姿勢になるのです。



実際の坐禅におけるこの微細な揺振運動は、ほとんど無意識的に行なわれる調整活動です。

坐禅をしている当人の意識においては「体軸が重力と調和したいい位置にあり、筋力ではなくバランスで坐っているのでとても楽な感じ」、「居心地がいい感じ」を確認しながらそこにとどまり、さらにそういう感じがより深まっていくようねらっているだけで、あとの具体的な細かい調整や洗練はからだに「お任せ」し、「ゆだねている」のです。

その結果として、この「楽な感じ」、「居心地のよさ」がより鮮明になり、それに導かれてはじめの体軸の位置よりももっと適正な位置に自然に動いていくこともあるし、時には居眠りや考えごとに陥ったり聞こえてくる音に注意を奪われたりして、この「楽な感じ」との接触が失われ体軸の保持がおろそかになってしまうこともあります。

この「楽な感じ」の精度自体が時間とともにゆらいでいるのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.303〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》
山のように動かない不動性が坐禅の特徴のように思われていることが多いようですが、僕はそれは一面的すぎる見方だと思っています。

「静中動」という言葉がありますが、静かに坐っている中に微細な動きが包含されているというのが実態だと思います。

意思で動くという意味での粗大な動きが最小になればなるほど、生きていることに伴う自然な動きが表に出てくる。

意識が静かに受動的になればなるほど、身体は生き生きと能動的になるという逆の対応があるようです。

僕が英語でよく言うThe less we do, the deeper we see.つまり、することが少なくなればなるほど、より深いものが見えるようになる、とよく似たあり方をしているのです。

何せ死体が坐っているのではなく、呼吸もし、心臓も動いている、消化器官も排泄器官も働いている、生きた生身の体が坐っているのですから、動きがないわけがありません。

僕としては、そういう坐禅の「息づき」の方を強調したいのです。

今回取り上げた左右揺振も、その動きがだんだん小さくなってはいくものの、目に見えないくらいの微小な揺らぎになるけれども、決してピタッと止まっているのではないのです。

精妙な微調整としてそれは止まることなくどこまでも続いていきます。

だとすれば、坐禅は止まるという運動をしているといっても間違いではなくなります。