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【坐禅講義55】第三講:坐禅のなかの動き ①呼吸の動き

正身端坐の姿勢はある意味で、呼吸の全体を最も繊細に感じ取り、楽に観察できる姿勢の一つでしょう。

普段は粗雑にしか感じられていない呼吸のきめこまかな表情(位置、源、頻度、入息と出息の配分、深さ、肌理、質感など)がそれとなく感じられてくるのです。

ことさらに意識をそこに向けて何がなんでも感じとろうと必死で頑張らなくても呼吸の方から意識のスクリーンに映ってくるという感じです。

それは、坐禅においてはゆったりとリラックスした状態とはっきりと冴えた状態がバランスよくつりあっているからです。

自然な呼吸に対しては人間的な尺度から○とか×、正とか誤の判定を当てはめることはできません。

そのときはただそういう息が現われたというだけのことです。

それに自分に感じられたことだけが息の全てではありません。

意識はあくまでも息の一部しか捉えることができません。


それを承知の上で、わたしが感じた範囲で息が生み出す動きを例として述べてみます。

これはあくまでも個人的な一例にしかすぎず、これ以外の感じ方ではいけないということでは決してありません。

呼吸は一人一人顔が違うように人によって個性的に違っているのが自然で当たり前だからです。


空気が鼻からからだの中に入ってくると脊椎の前面が刷毛でやさしくなでおろされているような感覚が上から下へとゆっくりと伝わっていきます。

そのとき一つ一つの脊椎が呼吸の通過によってほんのわずか、風に揺らされるように動いている感じがします。

坐蒲の上に乗っている坐骨まで空気が届くと、上から注がれた水が桶を底から順に満たしていくように、空気が腹部をゆっくりと満たしてそこを三次元的に、つまり上にも下にも、前にも後ろにも、右にも左にも膨らませます。

このとき骨盤はほんのわずかですが、開きながら前の方に転がるように動きます。

それに連動して腰がわずかながら反り気味になります。

空気が胴体を下からだんだんと上の方へ向かって満たしていくにつれて椎骨も下の方から一つ一つ上へ向かって浮き上がっていくようにわずかに動きます。

中層部、上層部にも空気が順に満ちていくので、そこも三次元的に膨らんでいきます。

わきや胸、背中に余計な緊張があるとこの膨らみに制約が加えられ、満ちていく動きがブロックされて、息の感覚が感じられなくなってしまうのです。

ですから、直立の坐位姿勢においては、なるべく筋肉の緊張に頼らず主に骨格のバランスで坐るようにしなければなりません。


胴体の膨らみは肩を介して、腕にも波及し指先にまで届きます。

そのことによって腕は中心から外側へ回転しますから、組んでいる両手もわずかにスライドして親指の先端同士が触れ合っている圧力が下がります。

空気が満ちることで引き起こされる内側からの膨らみの波はさらに上に向かって首を通り頭部にまで達します。

頸椎と頭蓋骨も水に浮く流木のように上へと向かう波に押し上げられます。

下腹部から始まるこうした膨らみのうねりは上方だけでなく、もちろん下方にも伝わります。

骨盤が結跏趺坐あるいは半跏趺坐で開いた股関節の間に入り込んでくるように前傾するので、脚の間の角度は外に押し広げられて膝同士が離れるように動きます。

大腿部は中心から外側に回転し、足もそれに連れてスライドします。


こうやって言葉でいちいち記述しようとするとひどく複雑な動きが起きているように聞こえますが、実は、第一講で紹介したおもちゃのホバーマンスフィアがイガイガ状態から丸い球に膨らむのと同じように、入ってくる空気によってからだが内側から風船のように三次元的に膨らんでいるだけなのです。

それをいざ、からだの各部ごとに記述しようとするとひどく煩瑣なものになってしまうのです。

静かな池の水面に石を投げ込むと、水の流体的な性質のせいで、波紋が周りへと放射状に広がっていくように、下腹から始まる膨らむ動きが連鎖反応的に全身へと広がっていっているだけなのです。

空気が出て行くときには、からだの弾力と同時相関連動の法則、そして重力の助けで、腹部のへこみから始まってさっきとは逆の経路で連鎖的に各部が元の位置に戻っていきます。

ここでは息が出て行くときのいちいちの各部の動きを記述することは省略します。

もちろん、呼吸が産み出すこのような動きはきわめて微妙、微細なものですから、柔らかくほぐれた弾力のある姿勢で坐っていればその動きは柔らかさに吸収されて外には現われません。

ですから呼吸のたびにからだがグラグラと揺れたりすることはありません。

もし呼吸のたびにからだが大きく揺れているのがありありと見えるようなら、それはどこか坐り方か呼吸の仕方、あるいはその両方に問題があるということです。

しかし、たとえ外からは見えなくても、坐っている本人の体感の世界では、坐相の全体が呼吸によって膨らんだり、元に戻ったりしている、伸びたり、元に戻ったり、締まったり、ゆるんだりを繰り返していることがはっきりと感じられているのです。


ちなみに、こういう感じ方、つまり出入りする空気によってからだが動かされるという感じ方とは逆に、からだがそういう動きをしているから空気が入ったり出たりしているという感じ方もあり得ますし、それも間違いではないのです。

からだの動きと空気の出入りは一体のものですから、空気がからだを動かすという表現も、からだの動きが空気を動かすという表現も同等に可能なのです。

わたしの場合は時によって、どちらの感じ方をするかが変わってきます。


気をつけなければいけないことは、こういうふうに細かく記述すると、中にはこれを手本にしてからだを意識的にコントロールし、自分でそう動くように「しよう」と努力する、あるいはことさらにそういう感じを持とうと努力するという誤りを犯しやすいことです。

ここで述べた微細な動きや感覚はあくまでそう意図して動いているのでもなく、そう感じようとしたのでもありません。

呼吸の運動として自発的に出てくる動きであり素直に感じられるものだということを忘れてはいけません。

骨盤が息の出入りによって前後に「揺れる」のと、わたしが骨盤を筋肉の力を使って前後に「揺らす」のとでは、一見似ているようでもわたしの体感においては天と地の違いです。

それが云為と強為の違いです。

云為によらなければ全身が連動しつつ一つのまとまりとして、坐相全体が膨らむ-元に戻るという運動をスムーズに繰り返すことはできません。

全身に存在するあらゆる関節部(椎骨の繫がりも含めて)においてそれぞれユニークなかたちとタイミングで現われる呼吸の運動を全て意識で操作して、作り出すことは数が多すぎて不可能だからです。

また仮にうまく作り出せたとしても自然にそうなったのと、人工的に作ったのとではそこに雲泥の差ができます。

意識ではとうてい真似のできないほど精妙に統合された呼吸による微細運動も、からだに備わった構造と機能にまかせれば何なくできてしまうのです。


このように坐禅おいては、呼吸の働きによって全身がある繫がりを持ったまま膨らんだり、元に戻ったりして「脈動(ある一定の平衡状態にあるものが微小な周期的変化をする現象)」しているのです。

わたしは自分が坐禅をしていてこういう全身の脈動を感じるときには、野口三千三先生が言われていた「原初生命体感覚」という言葉を思い出します。

「原初生命体感覚」というのは野口体操の発想の根源となっているある存在感覚のことです。

「自分自身のまるごと全体が、オパーリンの生命の起源における〈コアセルベート〉の未分化・全体性のあり方とそっくりそのまま、かさなりあい融け合ってしまったような実感」です。

「私にとってこのような、原初生命体コアセルベートと渾然と重なり合ってうまれる自分の存在感が、目覚めているときのあらゆる行動の根源的感覚にもなっているのである。

自分自身で納得できる行動ができたときには、この原初生命体と一体となっている、あるいは、それが基盤・母体・背景・根源になっているという実感がある」(『原初生命体としての人間』岩波書店)。


呼吸が産出するこのような脈動を許さない、かたくなでこわばった許容量の小さい「不動」でもなく、また脈動によってたやすく乱されかき回されてしまう、弱々しくかじかんだ「不動」でもない、脈動を内に豊かに含み、そのことで生き生きと息づきながら成立しているような、柔軟で弾力性に富んだおおらかな「不動」こそが坐禅の不動性でなければなりません。

『普勧坐禅儀』にある呼吸についての唯一の指示である「鼻息微かに通ず」というのは全身呼吸の脈動がからだの中をなめらかに伝わっているようなあり方を言うのではないでしょうか。

坐禅をしているときには、からだの五つの枝(四肢と頭・首)が胴体に融合してしまい自分がアメーバのような単細胞生物になり、その全身が呼吸のリズムで脈動しているような感覚が生まれてきます。

このときの体感はまさに野口先生が「生きている人間のからだ、それは皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいる」ようです。

禅には「臭皮袋(くさい皮袋)」という用語があります。

これは軽蔑的な言葉として使われていますが、人間が生きた皮袋だという指摘は当たっています。

坐禅は、生命力が枯渇し中の液体がよどんで嫌なにおいを発している「臭皮袋」をよみがえらせ、中の液体もそこに浮かんでいる骨や内臓、脳も生き生きと流動し、蠢き、躍動してかぐわしい生命の香りを発する「香皮袋(?)」 に変えるものでなければなりません。

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.294〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》
坐禅をしている時間は、普段気にも留めていない息がそれこそ最も生き生きと細やかに感じ取られる稀有な時間です。
 
「ナマ」のいのちに「じかに」触れる時間と言ってもいいでしょう。

「いのち」という言葉は、い(息)のち(勢い)、つまり「息の勢い」ですから、それはまさにいのちに直接している(じかに接している)ことに他なりません。

今の僕は、坐禅とは実はそういうものだったのだと実感を持って理解することができるようになりました。

今の息は今の息として絶対無比(比較を絶していること)なものですが、その絶対なるものを絶対なものとしてうやうやしく迎え入れるために、身心を最高度に調えて訪れを待っていること以上に、神聖な営みはないのではないでしょうか?

こういうことが世代から世代へとずっと伝えられてきて自分に手渡されたということですから、責任を持って次の世代へと伝えていかなければならないと改めて思っています。