(前の記事)
【坐禅講義54】第三講:坐禅の不動性

では、どのような動きが坐禅の中で息づいてるのでしょうか?

ここで言う動きは、自我意識が能動的に起こす、坐禅の不動性に抵抗しそれを壊すような意図的、意志的で粗大な動きではありません。

脚が痛いのでごそごそ動いたり、蚊が顔にとまったので手で払ったり、隣の人が気になってキョロキョロしたり・・・とそういう類の動きではありません。

坐禅が生きた身心で行なわれていることの証しとして現われている動きであり、筋肉と骨組みで正身端坐をきめ細かくねらっていることから必然的に出てくる非意識的、自発的な微細運動です。

ですからこの動きは不動性から生み出されてくる動きであり、むしろ不動性を支えている動きなのです。



こうした動きの中で、持っとも気づきやすいのはやはり呼吸が生み出す動きでしょう。

呼吸というのはそれ自体が運動に他なりません。

「呼吸あるところ運動あり」です。いかに静かで微かな息であろうとそれが呼吸である限り必ず動きを孕んでいます。

第一講で触れたように、正身端坐は全一的ですから、呼吸運動に直接関わるからだの部分、つまり胸郭部や横隔膜周辺、下腹だけでなく、呼吸に伴って実は全身が連動して動いているのです。

ところが、坐禅では丹田で呼吸をしなければならないという思い込みから、呼吸の動きを下腹のあたりだけに閉じ込めるような息をしようとわざわざ努力している人が時々見受けられます。

その結果、胴体の中層部や上層部にまで息が十分に満ちわたりません。

また、下腹の前面を膨らませることばかりに意識を傾けて呼吸しているので、胴体の側面や背面にも息が十分通っていません。

ましてや胴体に対しては枝にあたる下肢や上肢、それから首や頭に息が届くなどということは思いもよりません。

ここで「息が満ちる」とか「息が通う」、「息が届く」と表現したのは、要するに息の出入りが生み出す微かな動きがある部位にまで波及し、そこで息の存在を感じとることができるということです。



丹田呼吸というのは意識的に丹田だけで呼吸するという文字通りの意味に理解してはいけないのです。

正しい坐相で自然な息をしていると、入息が生み出すからだを膨らませるような動きの波が丹田あたりを中心にして、周囲に放射状に広がっていき、出息でまたそこに収斂していくように感じられるという意味なのです。

ですから正確には全身呼吸と言うべきです。

呼吸はからだの限られた場所だけで行なわれているのではなく、全身が呼吸器官になっているからです。

丹田呼吸というのはその意味では誤解を招きやすい呼称と言わねばなりませんね。



ここで「自然な」呼吸というのは、呼吸をことさらに抑制したり強制したりしない、わざと大きく呼吸したり小さく呼吸したりしない、意図的に長い、あるいは短い呼吸をしないということです。

しかし、それは必ずしもいつもの習慣的な呼吸ということでもありません。

われわれはいろいろな理由で、正しい、本当に自然な(本来的、理想的な)呼吸からはほど遠い未熟で不自然な呼吸を習慣的に行なっています。

誤った習慣を自然と勘違いし、それと混同してはいけません。

普通=習慣=自然とは言えないのです。ですから自然な呼吸といっても、すでに身についている習慣的な呼吸のままに放置しておけばいいということではありません。

それでは調息にはならないのです。

しかしかといって、あるメソッドに従って呼吸を意識で直接にコントロールしようとするのもやはり坐禅の立場ではありません。

それでは人為的、人工的な「呼吸法」になってしまい、自然な息ではなくなってしまうからです。

「正しい自然な呼吸はこうあるべきだ」とあらかじめ設定された呼吸の仕方を一生懸命練習することではのびのびした自然な呼吸にたどり着くことはできないのです。そ

れに自然な呼吸とは確定的なものではなく、そのつどそのつどの条件次第で自然な呼吸のあり方は変わってくるのです。

呼吸は全一的に機能している身心の一部なのですから、それだけを単独に取り上げてどうこうすることはできません。調息だけを単独に行なうことはできないのです。



では呼吸に自然さを取り戻すにはどうアプローチすればいいのでしょうか。

結論から言えば、それは間接的に、結果的にそうなるというあり方でしか実現しないのです。

第一講で述べたような正身端坐の工夫を通して、間違ったからだやこころの使い方が改められ、身心が調和し、筋肉の余計な緊張がほぐれて深いところからのリラックス状態が実現すると、あとはからだ自身の自己調整作用によって、呼吸のときの胸郭の動きや横隔膜の動きがスムーズになり、からだが勝手に、つまり自然に呼吸するようになるのです。

それは何か新しいやり方を身につけていくというものではなく、自然な呼吸を妨げているものを見極め、それを落としていく、捨てていく、止めていくプロセスです。正しくないことをやめれば正しいことが自然に起こるのです。

呼吸は坐禅のきわめて重要な一部ではありますが、それはあくまでも坐禅というより全体的なプロセスの一部であり、呼吸は正身端坐の原因ではなく自然な結果という位置づけにあるのです。



つまり、どう呼吸するべきかなどということは案ずる必要がない、正しい坐禅をしているからだがいい塩梅にやってくれるのにまかせておく、というのが坐禅の調息です。

こちらは息が刻々に自分自身をどこでどう表現しているかをありのままにきめ細かく感じとっているだけです。

それも、よそよそしい冷たい感じ方ではなく暖かい好奇心を持って感じるのです。

つまり、どう呼吸すべきかという理想が問題なのではなくて、自分は今どのような呼吸をしているかという実際に気づいていることが大事なのです。

息はどこから始まっているのだろうか?

どこで呼吸がはっきり感じられるだろうか?

息はどんな感じ、どんな様子だろうか?

 

藤田一照著「現代坐禅講義」(P.294〜)より一部抜粋

 

《藤田一照 一口コメント》
ちょうどこのコメントを書いている時に、磨塼寺のイベントでも対談したことがある医師の稲葉俊郎さんのFacebookの投稿にかれが監訳したアレクサンダー・テクニークの立場から書かれた呼吸の本の事が紹介されていました。

シンクロニシティ(同時性)を感じたので、長いですがそのまま引用させてもらいます。

以下引用。


アレクサンダー・テクニック、ご存知ですか?

体や心の動きで「不必要」で「過剰」になっている緊張に気づいて、悪い習慣をやめることで本来の自然な心身の動きや状態を取り戻していく技術。
 
特に、頭・首・胴体の関係などの動きに力点があるのが特徴です。
 
創始者のアレクサンダー氏(1869-1955年)は、オーストラリアのタスマニア島生まれ!
 
若い時は、シェイクスピア作品の俳優・声優として活躍していた方。
 
ただ、突然声が出なくなるというアクシデントに見舞われます。
 
そこから、自身の声や心身の不調を回復させるため(当時の医師からは原因不明といわれ・・)、自分を実験台としながら独力で体系的な技術を構築した方です。
 
アレクサンダー氏が俳優だったこともあり、アレクサンダー・テクニックは音楽家、ダンサー、アスリートのような特殊な身体を使うプロの方に愛好家が多いのも特徴ですね。
 
そんなアレクサンダー・テクニックの指導者の一人でもあるリチャード・ブレナン氏に「呼吸」に特化した本があり、その翻訳・監訳をさせていただきましたー。
 
はー。けっこう疲れたー。
 
4月13日、桜が咲いたころには出ますー!
 
いろんなワークが紹介されていて、とても面白く実用的な本です。
 
「呼吸」は誰にでも共通するいのちの行為ですが、なかなか意識することは少ないもの。
 
是非一度、この機会に「呼吸って何?」ってことを学びなおしてはいかがでしょう。
 
アレクサンダー・テクニックでは、何かを新しく学んでいく、という足し算のアプローチではなく、本来の身体の動きが生かせるよう、習慣化されてしまった悪いくせを見直してやめていこう、という引き算のアプローチ。

引き算なところが、東洋的な身体技法とも親和性があります。

心身の最高の使い手を、赤ん坊の動きに見ているところもあり、自分もとても共感できる!

医道の日本社から出ます。


出版と関連して「呼吸」に関するいろんなイベントもいろんな人たちとやっていきたいなぁとおもうので、ぜひぜひお読みくださいませ!
 
リチャード・ブレナン(著),‎稲葉俊郎(翻訳・監訳)「身体のデザインに合わせた自然な呼吸法ーアレクサンダー・テクニックで息を調律する」 医道の日本社(2018/4/13)

以上引用終わり。


僕もアレクサンダー・テクニークのレッスンはアメリカと日本で何回か受けたことがあり、坐禅中の呼吸についてもいくつか有用な示唆をもらった経験があります。
 
『現代坐禅講義』の今回の引用部分もそういう経験が背景になっています。

奥深い呼吸の世界についてはまだまだ理解が浅いので、この本からもぜひ学ばせてもらおうと思います。
 
今の僕の言い方で言うと「しない調息」というとても禅的(?)な坐禅の呼吸が実現するためには、特定の呼吸法の実践という単なるトレーニングではなく、自然な呼吸をどう稽古するか?という矛盾したことに取り組まなければなりません。
 
今の僕は、そこを突破するヒントをいつも探しています。
 
みなさんからの、応援もアテにしていますので、よろしく。