永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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少なくともこれくらいの心がけで普段から日常の息と親しんでいなければ、短い坐禅の間に、「調息ではない調息」=「しない調息」という繊細極まりない調息が深まっていく道理はない。

もちろん坐禅は、そのような調息を純粋に学ぶ最適の機会を提供してくれるが、「一息一息が自分自身という我が家に帰る一歩一歩となる」(ドナ・ファーリ『自分の息をつかまえる自然呼吸法の実践』河出書房新社)ためには、特に不自然な呼吸を日常、無自覚に繰り返しているわれわれ現代人には坐禅だけではとうてい足りないのである。 


以下で、上記の十のヒントの中のいくつかの項目を取り上げ、それを意図的に稽古するトレーニング法を紹介しよう。

興味のある方は試していただければと思う。

これはわたしの主宰している坐禅会や仏教塾で実践していて、一定の効果があると思われるものである。

ヒントの三では丹田(へその指三本分下あたりの奥)が呼吸と共に膨らんだり縮んだりしているのが理想であるが、自然にそうなっている人はなかなかいない。

自ずと丹田で呼吸できるようになる練習法として次のようなものがある。


ペアで行う。

一人が正坐し、もう一人がその後ろに坐って背中の腎臓あたりに軽く手を触れる。

正坐している人は触られている感覚を手掛かりにして、腎臓のあたりで息を大きく吸って深呼吸を数回おこなう。

その後は自然な呼吸にもどるが、触られている腎臓のあたりで呼吸している意識は残しておく。

息を吸う時、腎臓が膨らむ感じを味わう。

どちら側かが膨らむ感じがなかったり、弱かったりする場合は、両方が均等に膨らむように意識して呼吸する。

後ろで触れている人も、前の人の呼吸に合わせて 自分も腎臓に息を導いていく(これは以下同じ)。適当な時間これを続ける。


次に、後ろの人は両手を左右の側腹(脇腹)に移す。前に坐っている人は今度は側腹を膨らませるような意識で息を吸っていく。

くれぐれも力んだ息にならないように注意する。

次に後ろの人はまた腎臓に両手で触れる。

今度はそこから息を吐いていくよう意識する。最後にまた側腹に触れる。

そこから息を吐くように意識する。

このようにして腎臓や側腹を意識して呼吸すると、横隔膜が下がりやすくなり、その結果自然に丹田が充実してくるという生きたからだのつながりを活かしたトレーニングである。

横隔膜を直接的に下げようとしたり、丹田を直接充実させようとしても難しいので、このように関連する場所を使って間接的に自然にそれを実現するのである。


ヒント四に関連してだが、同じようなやり方で、背中や背骨、腰など様々なからだの部位に手を触れてもらって、そこへ向かって息を吸い、そこから息を吐くという意識で呼吸するというトレーニングも面白い。

からだのどの部分にでも息を導け、その部分でも息を感じられるように練習する。

これは「鼻息微通」を意識的に練習するのである。

「なるほど、からだの隅々まで息が通るというのはこういう感覚のことを言うのか」と合点がいくだろう。

坐禅の最中にはもちろんこのような人為的な「練習」はやらない。

坐禅は毎回「本番」だからである。坐禅とこのようなトレーニングとは決して混同してはならない。

坐禅中にはこういうことは一切忘れて坐禅は坐禅として坐禅に専念すべきだ。

しかし、坐禅の「課外授業」あるいは「補習」として、このようなトレーニングをすることは許されるのではないだろうか。

坐禅で要求される感覚やからだの使い方、態度、理解といったものを敢えて取り出して個別に練磨するようなトレーニング。

わたしが主宰している坐禅会や仏教塾では、このようなトレーニングを積極的に取り入れて実践しているが、自分のしている呼吸への興味が増したとか、呼吸の奥深さを感じ たとか、微妙な感覚を感じるコツがつかめたと言う人が多い。

このようなトレーニング法があるのにそれを学んで身につけないのはもったいないのではないだろうか。


ただし、それはあくまでも手段で あって目的ではない。

往々にしてわれわれは、手段のはずであったものに使われてしまう羽目に陥る。

手段によりかかるのもまずい。

手段があるのにそれを使わないのでもないし、手段に頼ってそれに使われるのでもない。

手段を学んでそれを身につけるが、坐禅ではそれを手放して「使わない」のだ。

学んだものが自然に出てくる、それが手段・方法を学んで、それに使われない道ではないか。

 

ヒント五はとても重要なポイントだ。

われわれは出息が完全に「成仏」する前に、それを途中でキャンセルし反射的に息を吸い込む悪癖を身につけている。

つまり、吐く息を早々と切り詰めているのである。

呼吸の量を増やすというとたいていは深く大きく息を吸い込むことでそれをやろうとしがちだが、実際はその逆で息を充分に吐けば自然にはるかにたくさんの息が深く入ってくるのである。

どうもわれわれはその事実をほんとうには信用していないようだ。

だから、吐く息を長くして完全に出し切っても大丈夫、何もまずいことは起こらない、だから息をたくさん吸いたいのなら、まず息を出し切る ことが必要だというメッセージをからだにしっかり伝える必要がある。 


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋