【坐禅講義54】第三講:坐禅の不動性
藤田 一照 藤田 一照
2018/03/16 07:06

【坐禅講義54】第三講:坐禅の不動性

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【坐禅講義53】第三講:世界との親密さを深める

坐禅はじっと坐って山のように動かない「不動」のイメージで見られがちです。

確かに坐禅をしているときに、次々と頭に浮かんでくる、将来の計画や過去の出来事についての様々な思いや、快感、不快感、痛み、かゆみといったからだのあちこちに生じるいろいろな感覚にいちいち反応して、からだをグラグラさせたり、ごそごそ動かしたりしていたら、到底坐禅にはなりません。


坐禅においては、からだのどこかにかゆみを感じるとか、予期せぬ音を耳にするとか、普段なら思わずからだを動かしてしまうような状況になっても、あえてからだを動かさないように心がけ、そこに手をやって搔いたり、頭を動かして振り向いたりしないのです。

あるいはからだのどこかにかなり強い痛みを感じたり、こころに大きな感情的動揺が起きるとか、普段ならとてもじっと坐っていられないような状況になっても、坐を解いて立ち上がり坐禅を中断することなく、あえて坐り続けるように努めます。


われわれは普段、そういう好ましくない状況になると、たいていは自分にとって都合のいいように状況を変えようとして、意識的、無意識的に反応してからだを動かしてしまいます。

多くの場合、それは自分の慣れ親しんだ習慣的行動のパターンを反復することになります。

ですから、ほとんど自動的、反射的な反応になっています。

自分で自覚するよりも先に、気がついたらもうすでに動いてしまっています。

これに対して坐禅では、不動の態度を自覚的に貫こうとします。

つまり、かゆみや音、痛みやこころの動揺といったことが自分に起きているということにはっきりと気づいていながらも、それに対していつものような反応をあえて起こさず、じっと坐り続けているのです。

坐禅をしているあいだは、どこまでも正身端坐を守ることを最優先とし、習慣的反応パターンが思わず起動しそうになるのを坐禅の姿勢のなかに静かに収めておきます。

それは喩えて言うなら、燃えあがろうとする火を内に収め上手に制御しているかまどのようです。


こういう観点から坐禅を見ると、それは「習慣的行動パターンの抑止」という意味を持っていると言えます。

坐禅をすると、自分が日頃どのような身心の反応パターンを習慣的に反復し、それを強化させながら暮らしているかがまざまざと浮き彫りになります。

そういう反応パターンが坐禅の不動性への抵抗として様々なかたちで浮かび上がってくるからです。

普段なら垣間見ることのないナマの自分のありさまがそこにいやおうなく映し出されてしまいます。

坐禅をしていると自分がお粗末なんだということがよくわかってきます。

そんなお粗末な自分に自信を失うことが坐禅の功徳なんですね。

そのことで思い出すことがあります。



子供のころ、祖母から地獄の大王、閻魔さまの話を聞かされました。

閻魔さまは死んだ人を裁く裁判官のようなことをやっていて、生前の行いを全て映し出す特別な鏡を持っていると言うのです。

仏教ではそれを浄玻璃の鏡と言います。

「この鏡の前ではどんな隠し事もできん。もし嘘をついていることがわかったら閻魔さんがおまえの舌を引っこ抜くんだよ!」と祖母が真顔で話すものですから、純情なわたしはそういう鏡が本当にあるんだと信じ込みました。

しかしいつしか、そんな恐ろしい鏡は空想の産物にすぎないと思うようになりました。

さてずっと後になって、坐禅に親しむようになったころ、人から「坐禅中は無念無想、さぞかし清らかな心境なんでしょうね」とよく言われました。

でも実際にはそんなことは滅多にありません。

少なくともわたしの場合は「我が心鏡にうつるものならばさぞや姿の醜くかるらん」という道歌がぴったりの状態であることがしばしばでした。

坐禅の中では日常の自分の「浅はかさ」、「いじましさ」がそのまま浮き彫りになるのをまざまざと見せつけられます。

自分が煩悩の塊であることを嫌でも思い知らされるのです。

そういう経験と祖母の言っていた浄玻璃の鏡の話があるときパッと一つに結びつきました。

「あの鏡は本当にあった! この坐禅のことだったんだ!」。

坐禅をしていると、自分が凡夫であることをありありと照らし出す浄玻璃の鏡の前に立っているような気がしてきます。

けれども、それは自分が非難されているとか責められている、とがめられているという感じではないのです。

不思議なことですが、お粗末な自分をそのままに大きな坐禅がそっと包んでくれている、受け入れてくれているという安らかさのようなものがそこにはあるのです。


このように坐禅の大きな特徴が、その不動性にあることは間違いありません。

しかし、いのちの通った実際の坐禅の不動のあり方はいのちの通わない死物の不動とは全く違います。

正身端坐を外から見れば、なるほど微動だにせず山のようにじっと坐っているように見えます。

しかし仔細に点検してみると、実は非常に微細なものですがそこには確かに「動き」があるのです。

坐禅の不動性は完全な「静」ではなく内に「動」を蔵しているものなのです。

しかも、その動きは自分が意図して動かしている随意的な運動ではなく、自然に自発的に起きている不随意的微小運動です。

それは坐禅にいのちが通っているしるしとして現われている坐禅の「鼓動」、「息吹」、「息づき」とでも言うべきものです。


ですから、坐禅の不動性を完全な静止と単純に理解するのは誤解だということになります。

事実、そういう思い込みに基づいて、文字通りの不動にならなければと筋肉を緊張させ石のようにからだを硬く凝り固め、息を詰めて坐っている人をしばしば見かけます。

しかしじっとしていようという、自発的な動きさえも全て極力排除しようとして不自然で無理な坐り方をしていると、その人の思いとは裏腹に、姿勢は静止するどころかかえって不安定になって、グラグラと揺れ出し、からだのあちこちに痛みが生じ、息も浅く不規則なものになり、それを反映してこころも様々な思いで乱れに乱れるということになります。

実は、正身端坐の不動性はこれとは逆に、重力に対して適切でバランスの取れた関係で坐り、そのことによってからだから余計な緊張がすっかりほどけ、ゆったり、すっきりと楽に坐ることによって初めて実現するのです。

身心が落ち着くところへ落ち着いているからもうごそごそ、グラグラと落ち着きなく動く必要がないというのが正身端坐なのです。

『大言海』という辞書には「すわる」とは「定まりて動かず、居所、善くかなう」と書いてあります。身心がまさにあるべきところに定まって満足して坐っているのが坐禅なのです。

そして、身心がそのようにくつろいで本当に坐っているからこそ自ずと微かに立ち現われてくるような動きこそが、これからお話しする坐禅の中の動きです。


坐禅の不動性を背景としそこから浮かび上がってくる微細、微妙な動きが確かにあるのです。

いかにも不動そのものに見える坐禅の中には実はバラエティに富んだ豊かな動きの世界が秘められているのです。

ですから坐禅を静止的、固定的なからだのポーズとして理解するのは正しくないということになります。

坐禅はむしろダンスのような動的なプロセスとして理解すべきです。

 

藤田一照著「現代坐禅講義」P.290〜)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
 坐禅は運動を否定した静止ではなく、目に見えないほどの極微の運動、あるいは止まるという運動といった方がいいのではないか、というのが僕の今の考えです。

坐禅を始めた頃は、坐禅は動いちゃいけなんだ、だから動かないように動かないようにと身を固めていましたが、それは単に、どうだ、俺の坐禅は山のように不動だろう!と、外の眼を意識したパフォーマンスに過ぎなかったと今では思います。

必然性を伴った自ずからなる鎮まりとは似て非なるものでした。

拘束によって秩序を作り出そうとしていたのだと言い換えてもいいかもしれません。

同じように見える秩序でも、拘束によって外から押し付けるのではなく、自由を与えてそこから自発的に生成してくる秩序というのもがあるはずです。

坐禅に備わる秩序というのはそういう性質のものだと思います。

動いてもいいのだけど、動かないで止まっている、微細に動いているのだけれど止まっているように感じられる、動を宿した静、といった動と静のダイナミックな共存の世界がそこにはあるでしょう。

 

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