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【坐禅講義52】第三講:他を排除する悪しき集中

ですから坐禅というのは世界とより親密になっていく道だと言えます。

それを直接に目標として目指しているわけではありませんが(坐禅は正しく坐禅すること以外何ものも目指しません)、尽一切と通い合う坐禅をしていれば自ずとそうなっていくのです。

坐禅していると敵がなくなっていくような気がするのです。

味方、親友が増えていく感じです。

自分のいのちを支えてくれている自然とそれが当たり前のように親密に交流していく。

坐禅ではそれがあらゆる局面でそれと知らずに行なわれているのです。

たとえば、呼吸というのは、周囲の空気とどのように親密に交流していくかという問題として捉えることができます。

坐禅の姿勢は重力とのダンスのようなものだと前に言いましたが、そういうダンスを通して重力との間によそよそしい関係、あるいは坐禅をおびやかすような敵対した関係ではなく、坐相をまとめ、支え、身心を癒してさえくれるような親しい関係を学んでいくのです。


しかし、その交流の全部を自分の覚知の中には持ち込めません。

この交流のありさまというのはそれくらい広くて深いものなのです。

それに尽一切と通い合うといっても、尽一切を相手に通い合っている様子を自分が対象的に知覚するとかそういうような感覚を味わって感激するというような話ではありません。

通い合いをそのような覚知や感情として自分の体験に持ち込もうとすることは、逆に尽一切から宙に浮くことになります。

尽一切の一部を切り取って自分のものにしようとすることだからです。

何かの機縁でそれが意識に上ってくることはあるにしてもやはり尽一切との通い合いはそのままそっと自然に行われているままにしておかなければなりません。

「手に取るな やはり野におけ蓮華草」という態度です。


けれども同時に、覚知する力を繊細、精密にしていくという努力はやはり必要です。

感受性の洗練ということです。

そういう努力をすればするほど、覚知できない世界が覚知できる世界と接しつつ無限に広がっていることがより鮮やかに自覚されてくるからです。

尽一切との通い合いということが実感を通してより確かなものとして確信され、尽一切からの助けをさらに微細なレベルで受けとめられるようになる深まりの回路が開かれていきます。


尽一切との通い合いの実際がこのようにして深まっていけば、もはや「助け」という言葉を使うのが水くさく感じられるようになってきます。

「助けられるわたし」と「助ける何か」という分け方がもはやできない次元に入っていくのです。

助けるも助けられるもなくなって、それらがみんな一つの簡素な坐禅の一要素として繫がりあうからです。

わたしとしてはその辺のことを表現する言葉をまだ持てていませんので、今回の講義ではそこに踏み込むことはしないまま、この辺で終わらせていただきます。
 

 藤田一照著「現代坐禅講義」(P.252~)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
澤木老師や内山老師はよく「宇宙いっぱい」とか「天地一杯」という言葉を使っておられました。
 
「一杯」と言うくらいですから、何一つそこから排除したり、落ちこぼしたりしないということです。

道元禅師だと「尽」と言う言葉になるでしょうか。

「ことごとく一切合切」というのが「尽」です。

「尽時」「尽界」「尽有」「尽十方」…。

しつこいくらいにこの字を使っています。

意識の立場に立つ限り、「いっぱい」とか「尽」ということは無理です。

意識は本質的に内側に閉じていて、その結果、外側が排除されますから、一杯や尽という訳にはいかないのです。

この観点から見ると、小乗・大乗という対照は、個人の解脱のみを目指すか、一切衆生と共に解脱を目指すかという教科書に書いてあるような区別もさることながら、意識の立場に立つか、意識を超えた(あるいは意識以前の)立場に立つかという区別という方が、より本質的なのではないかと思えます。


それとパラレルな関係で、意識の立場でするのが習禅、意識以前の立場でするのが坐禅という区別ができるかもしれません。

もちろん、坐禅の中に意識は含まれています。

普通だと、私が坐禅を意識しているということになりますが、本当のところは、坐禅の中に意識がある(坐禅が私を意識している)のです。

天地一杯の坐禅というのは、まさに図と地が反転したところで言われていることだったのです。