【坐禅講義52】第三講:他を排除する悪しき集中
藤田 一照 藤田 一照
2018/03/02 07:06

【坐禅講義52】第三講:他を排除する悪しき集中

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【坐禅講義51】第三講:呼吸と五感

興味深いことに、仏教心理学では眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官(五根)に加えて、意つまりこころも六番目の感覚器官とみなしています。

全部で六つの感覚器官(六根)があり、それぞれ独自の感覚対象(六境)があり、感覚器官と感覚対象が接触することで独自の認識(六識)が生まれると説いています。

われわれの経験はこの六根・六境・六識の組み合わせから成り立っていてそれ以外の構成要素はないというのです。

では、意は何を感覚対象としているかと言えば、思いとイメージです。

ですから坐禅では、五根だけでなく意もまたマジック・アイ的なあり方をしている必要があります。

つまり、「マジック・マインド」ですね。

それは、浮かんでは消えていく思いやイメージを能動的につかもうとしたり、排除したりしようとせず、やわらかくリラックスして、どれか特定の対象に焦点を当てず、「意野」(意識の及ぶ範囲のこと)に登場してくるものをみんな均等に受動的に柔らかく受けとっているというあり方です。

普段われわれの意根はその反対の状態になっています。

他の五根に注がれるべきエネルギーまで使い込んでしまい、頭の中のある特定の思いやイメージに捉われて、そこからなかなか離れられなくなっているということです。

そこでは思いやイメージが勝手にどんどん自己増殖していくようになり、意根がそれに魅せられてそちらにのめり込んでいるのです。



坐禅中にもよくこういうことが起こります。

知らないうちに思いを追いかけ始め、考えごとにふけってしまうのです。

人それぞれに考えごとをするときに思わずとってしまう姿勢があります。

たとえばある人は前かがみになるし、別な人はからだが右に傾く、顔を上に向けて考える人もいればうつむいて考える人もいますし、首を右にかしげる人もいるでしょう。

坐禅のとき両手で作っているきれいな楕円形も考えごとをしているときは手がお留守になってしまいますからかたちを保つことができずだらりとつぶれてしまいます。

考えごとにふけると、たいていの人は開いているべき眼も閉じてしまうでしょう。

そのような正身端坐とは相容れないその人独特の考える姿勢にならないとどうしても考えを追うことができませんから、考えごとをすれば必ず正身端坐の姿勢が崩れます。

そしてそのことに気づきもしません。

意根の対象に過度に集中しているせいで、他の五根から入ってくる情報がきちんと受けとめられていないからです。

ですから、考えごとというのは意根がその対象に過剰な集中をしている状態と言っていいでしょう。

マジック・マインドではなくなっているということです。

「坐禅中にどうも考えごとにふけってしまって、うまく集中できません」と言う人がいますが、実は思いやイメージにはちゃんと集中できているのです。

そこからずっと注意が離れないのですから。

しかし、こういう偏った集中は、どの感覚器官においても、坐禅では避けなければなりません。

どこかの感覚領域だけに注意が濃く集まっていて、他の領域には全く注意が注がれていないような注意のアンバランス状態では、必ずどこかにからだで言えば「凝り」、こころで言えば「スキ」ができてしまい、正身端坐が実現できないからです。



しばしば坐禅は精神集中の練習だと思われていますが、これは大きな誤解と言わなければなりません。

何かに精神を集中することは何よりもまず集中しようとしている自分と集中するべき対象という本来は存在しない二元性を人為的に作り出します。

そして必然的にその対象以外のものは集中を妨げる邪魔物になってしまいますから、それを極力排除する努力を伴います。

ですから何かに集中するという営みは、尽一切と通い合っている自分を純粋に表現する坐禅とは共存できないのです。

坐禅について、どうしても「集中」という言葉を使いたいのなら、自分が選んだ特定の対象に集中する普通の意味での一点集中型の集中ではなく、全てに集中するオープンな集中、焦点を持たない集中でなければなりません。

英語だと前者はpay attention to ~(~に注意を注ぐ という能動的な動詞 対象が特定される)、後者はbe attentive(注意深くあるという状態 対象は特定されない)という具合にそのあり方を区別できるのでしょうが、日本語ではうまい言い方が見つかりません。



こういうわけで集中という言葉はいらぬ誤解を招きかねないので、わたしとしてはむしろ坐禅では「集中」という表現を使わない方がいいのではないかと思っています。

坐禅は一点集中型の瞑想とは異なり、たとえば息を集中の対象として恣意的に選び出し、それだけにひたすら注意を注ぐようなことはしないからです。

注意の対象を限定しないで、ただ注意深くあるだけです。

やわらかく包括的な注意深さの状態の中で、そのほかのいろいろな出来事とならんで息ももちろんそれとなく感じられているのです。

六根が全てマジック・アイ的な状態になっていて、姿勢も息もこころのあり方もそして外界の刻々の変化も、その全部が継ぎ目のないまるごと一つの立体曼荼羅として受けとられます。

六つの感覚領域全てに均等に注意が向けられていますから、内界にも外界にも等しく開かれたあり方で坐っています。

こうして内にも外にも通い合いながら坐禅が展開していくのです。

 

 藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋(P.249~P.252)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
ここで「注意の対象を限定しないで、ただ注意深くあるだけ」と書いた状態のことを、今ならchoiceless awarenessという熟語で表現するでしょう。

この表現はJ.クリシュナムルティというインド出身の精神指導者の本で初めて知りました。

僕は禅に出会う前にこの人の本をかなり読んでいました。

彼のことをネットで検索すると「1895年、南インドに生まれる。神智学協会において来るべき世界教師としての教育を受け、<星の教団>の指導者となるが、1921年、「真理はそこへ通じるいかなる道も持たない領域である」として同教団を解散。以降、あらゆる権威や組織によらず、独力で真理を探求することの重要性を説き、さまざまな講話や対話を行いながら世界各地を巡った。

その一貫した懐疑の精神と透徹した語りは、幅広い聴衆に深い影響を与えてきた。」といった紹介がされています。

磨塼寺を訪れてくるような人の中にはかれのことを知っている人が多いのではないでしょうか?

僕の世代では影響を受けた人が結構いるはずですが、今の若い世代はどうなのでしょう。

かれはawarenessということについて深く考えた人の一人だと言っていいでしょう。



choicelessという形容詞には、「何に気づいているか」ということではなく、「気づいていること」そのものに重点があることを暗に示しています。

この方向に気づきが繊細になっていくと、図と地の反転のようなことが起こり、私が何かに気づいているというのではなく、気づきの中に私がいるというような感じになってくることがあります。

観照する者も観照される対象もなく、ただ観照だけが起きているというような状態です。

これは別に神秘体験でも何でもなく、普段無意識にやっている主客の分別作業が、くつろぎのなかでしばし止まっていることの結果です。

しかし、そういう「境地」を意思、意欲で目指してしまっては、その「目指し」が邪魔をして、それはやって来ません。

クリシュナムルティがpathless land(道なき場所)と呼んだ所以です。

そういう道なき場所に坐るというのが坐禅の醍醐味のはずです。
 
 

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