永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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このところずっと坐禅中に湧いてくる思いの問題を扱ってきたので、ここらでいったん話題を変えようと思う。

それはこの問題に決着がついたからではない。

別にこれといった理由はないが、そろそろそれとは違うテーマで書いてみたいという気持ちになってきたのだ。

そんないい加減な!とおしかりをうけるかもしれないが、なにしろ「雑考」とはじめから断っているのだから許されるだろう。

無理して一貫したテーマをだらだら追求し続けるより、今取り組みたいことが出てきたらさっさとそれに切り替えた方が良い場合が多い。

自分の場合、飽きてきたら別なことに関心を向けて、そのうちまた取り組みたくなったらそこにもどるというやり方の方が、けっきょくはおもしろいものができあが るようだ。

人間に本来備わっているはずの飽きる力の積極的な意義を説く河本英夫著『飽きる力』(NHK出版生活新書)によると「飽きるとは、選択のための隙間をひらくこと、異なる努力のモードに気づくこと、経験の速度を遅らせること」だと言う。

確かに、ものごとを本当に深めていくためには「飽き」を感じたらいったんそれから離れた方がよい、ということもあるのだ。

ということで今回は今月初めに、ノースカロライナ州アッシュヴィルにある二つの禅センターに講義に行った折、そこの指導者である貞静・ムニック尼の粋な計らいで思いがけなく受けることができたアレクサンダー・テクニークのレッスンのことを書こうと思う。

その体験がまだ新鮮なうちに文字に書き留めておきたいと思ったからだ。 


わたしがアレクサンダー・テクニークのレッスンを初めて受けたのはマサチューセッツ州の禅堂にいた時だった。

住持として住んでいたパイオニア・ヴァレー禅堂での日曜坐禅会で、ある時、正しい坐相にどうやってたどりつくかということについて、自分の考えを話していたら、他州から来ていた参加者の一人が「あなたはアレクサンダー・テクニークというものを知っているか?あなたが今言ったような考えで坐禅をやろうとしているのならきっと役に立つから、レッスンをうけたらどうだ。この地域にもアレクサンダー・テクニークを教える先生がきっといるはずだから、探してみたらいい」と言うのだ。

アレクサンダー・テクニークという名前を聞くのは初めてであったが、その人があまりに熱心に勧めるので、当時はインターネットなどなかったから、いろいろ人に聞いてみたりして探し始めた。

そのうちに、ミニコミ誌に「アレクサンダー・テクニークのレッスンをやります」という広告を見つけた。

電話で連絡を取ったら、わたしが週一回、そこのお茶室を会場にして坐禅会をやっていたマウント・ホリヨーク・カレッジというアメリカ最古の女子大学の近くにスタジオがあるという。

さっそく、坐禅会の前に予約を取ってそのスタジオにたずねて行った。


そこで、チェロの演奏家でもあるという男性のアレク サンダー・テクニーク・ティーチャーから生まれて初めてのレッスンを受けたのである。

自分が日本からやってきた禅宗の僧侶で、坐禅との関連でアレクサンダー・テクニークを勧められたことを話すと、かれは「ワォ、それは素晴らしい。よく来てくれました」と喜んでくれた。

レッスンが始まると、かれはわたしの頭の後ろに手をそっと添えた状態で、ときどき「頭全体とからだが上へ、前へいけるように...」といったガイドを入れながら、わたしに立ったり、椅子に坐ったり、椅子から立ち上がったり、部屋の中を歩いたりさせたりした。

それから「あなたが坐禅をしているところを見せてください」と言うので、ソファのクッションを坐蒲がわりにして坐ると、わたしの頭や首、肩や背中にそっと手を触れて微調整しているような感じのことをやり始めた。

されるままにしているとときどき「イエス」とか「グッド」とか言ってくるのだが、わたしには何の事だかわからない。


一時間ほどのセッションは、腰ぐらいの高さの台の上で膝を曲げて仰向けにリラックスして寝るというレッスンで終わった。

カイロや整体のようにからだを他動的にいじられるのかと思っていたのはまったくの思い違いだった。

ティーチャーの助けを借りて、自分自身がからだをどう使って動いているかに細かい注意を向けて、これまでとは異なる動き方を新しくさがしていく、いわば「動きの再教育」だなという印象であった。

そのあといつものように大学のキャンパス内のお茶室に行って、大学生たちと坐禅会をやったのだが、さっそく習ったことをそこでみんなにシェアして、坐禅や経行のやりかたについて自分なりの発見を説明してみた。

わたしも参加者も大変、新鮮な興味を覚えたし、坐禅のやり方に関してもなんらかの深化のようなものを感じ取ることができた。

「これは面白いからもっと学ぼう」と思ってそれからも何回か、その人からレッスンを受けた。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋