【坐禅講義49】第三講:坐の環境を整える
藤田 一照 藤田 一照
2018/02/09 07:07

【坐禅講義49】第三講:坐の環境を整える

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【坐禅講義48】第三講:坐禅を助けてくれるもの

 坐禅は周りに存在している空気にも助けられています。

生命維持のために必須の呼吸という働きは空気がなければ成り立ちません。

肺の構造や機能を見ればわかるように、肺は最初から空気の存在を前提にしてできています。

肺はあらかじめ空気がどのような性質のものであるかを知っていたかのように、空気とぴったりマッチするようなあり方をしています。

歩く足と地面、眼と光もそういう関係にありますが、こういうことはあまりにも当たり前の事実なのでわれわれはそのことにあらためて驚いたり、深く考えたりすることはめったにありませんが、われわれのからだは周りの環境を自分が生きるための助けとしてしっかり受けとれるように最初からできているのです。

われわれの呼吸をつかさどるからだの働きや構造と空気は最初から親密な関係にあります。 


 
自分の力だけで呼吸をしなければならないと思い込んでいるとそれはその通りの「きつい仕事」になってしまいますが、実は意識以前のところで呼吸の面倒をちゃんとみてくれる精妙なメカニズムがからだには内蔵されていますから、呼吸のことは空気とそのメカニズムに任せておけばいいわけです。

ところがわれわれにはそういうことがなかなか難しいのです。

もうあとほんの数センチ足を下ろせば地面に足が着いて両足で立って楽になれるのに、それを知らないで手を離したらまっさかさまに落ちて死んでしまうと思い込んでいる人は自分が必死につかんでいる綱を手放すことができません。

この人は綱にしがみつくことに全力を尽くすことに精一杯で、自分が高いところにぶらさがっているのではなく、本当は地面のすぐそばにいるという事実に眼が向けられないのです。

すぐそばまで自分を重荷から解放してくれる助けがきているのにもかかわらずそれが見えないのです。

こういうもったいなく、かつ愚かしいことをしているのがわれわれの実態です。


呼吸をからだに任せて坐っていると、自分が自主的に吸う、吐くということを「やっている」という感覚がだんだん薄れてきて、空気の方がからだの中に入ってきたり、出ていったりしているという感じ方になってきます。

坐禅をめぐる対談者の一人であるヨーガの塩澤賢一先生は「人が亡くなるとき『息を引き取る』って言いますよね。

その主語は何なんでしょうね。どう考えても亡くなる人ではないですよね。だとすると外にある空気が引き取るということじゃないかと思うんですよ。

空気の方でもうあなたには必要でないからうちで引き取りますよって感じじゃないですかね」とおっしゃっていましたが、それはこういう感覚から発想されたものではないでしょうか。

それからわたしの場合、あるとき、周りの空気がやわらかい壁のような感じになってそれに支えられてからだを立てているような、周りじゅうにある空気の壁にはさまれ、それに寄りかかって坐っているような感覚がしたことがありました。

そういうときは、空気がどちらかに動けばそっちの方向に押されてからだがなびいてしまいそうでしたから、今もし風が吹いたら困るなあ、と思ったことでした。

古来、「風が直接あたるような場所は坐禅には適さない」と言われていますが、それは単に、からだが冷えるとか気が散るという理由だけでなく、からだが風になびいて正身端坐が難しくなるからだったのだと妙に納得がいきました。

空気が荒々しく動かずそこにじっと存在してくれていることのおかげを被って坐禅していたことがわかった出来事でした。


わたしは日本の内外いろいろな場所で坐禅をしてきましたが、そういう経験を通して坐禅を行なう場の大切さを実感してきました。「『禅定力』さえあればどんな場所でも坐禅はできるはずだ」と豪語する方もおられますが、わたしはそういう立場は取りません。

坐禅を助けてくれるものがなるべくたくさんあるような場所で坐禅ができるようにベストを尽くすべきであると思っています。坐禅の環境には十分配慮すべきです。

坐禅をする場はいっしょに坐禅をするパートナーなのですから、何でもいいというわけにはいかないのです。

道元禅師の『正法眼蔵 坐禅儀』には「坐禪は靜處(じょうしょ)よろし。坐蓐(ざにく)あつくしくべし。風烟(ふうえん)をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡(しょうせき)あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜(ちうや)くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり」と懇切丁寧にその指針が述べられているのですから、「容身の地を護持すべ」く最善を尽くすべきです。

わたしは坐禅に親しんでいくうちに、ここに書かれている指針の意味がより深く味わえるようになってきました。

部屋の静かさ、適切な温度や湿度、明るさ、坐蒲や坐布団、坐禅中にたくお香、一緒に坐っている同行の人たちの存在、自分に坐禅のとき間を保証してくれている家族、あるいは平和で安全な環境・・・そういった環境や場所からの有形無形の助けのありがたさがしみじみ感じられるというのは坐禅の大きな功徳であり喜びであるというしかありません。

みなさんもそういう眼で、自分の坐禅を助けてくれているものやことを一つ一つ発見していってください。

 

 藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋(P.240~P.243)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
ここで書かれている、坐の環境を調えるという問題は、実は「人類で最初に坐禅した人」と僕がよんでいる、ゴータマ・ブッダが苦行を放棄して、樹下に打坐したときのエピソードがすでに答えていると思います。
 
樹下に打坐する前には、村娘スジャータから供養された乳粥を食べて、苦行で弱った体力を回復したことは『普勧坐禅儀』にある「夫れ参禅は、……飲食(おんじき)]節あり」につながっているし、村人から供養された干し草を地面に敷いて、その上に坐ったのは「坐処には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用ふ」につながり、苦行で汚れた体を川で沐浴して清めたのは、坐禅が大自然(=仏)から借りた身体を大自然にお返しする、つまり、自分を仏に供養する営みである以上、供物としての身心をていねいに洗い清めてからお返しするのが当然だからです。
 
坐禅は坐蒲の上に坐る前からもうすでに坐禅が始まっていると考えるべきです。
 
釈尊が樹下に打坐したときから坐禅がはじまったのではなく、もうそれ以前のスジャータや、村人や、自分の身心への対し方に、すでに坐禅が浸透していると見るべきです。
 
それはわれわれの坐禅についても同じことです。
 
坐っている時だけが坐禅なのではなく、それ以前、それ以後も、坐禅相応の生き方、処し方がなければなりません。
 
それがあれば、どれだけスムーズに坐禅に入れ、深い坐禅に恵まれることか。
 
世界全体が自分のする坐禅を応援してくれるのですから。

釈尊が開悟の瞬間につぶやいたという「我と大地と有情と同時に成道す」という言葉は、アタマで考えた理屈ではなく、ココロから湧き出た情緒、心情だったのでしょう。
 

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