【坐禅講義2】序講:くつろぐ能力はネガティブ・ケイパビリティ
藤田 一照 藤田 一照
2017/03/28 13:00

【坐禅講義2】序講:くつろぐ能力はネガティブ・ケイパビリティ

「部屋の中で安静にしていること」をここでは仮に一言で「くつろぐ」と呼ぶことにしましょう。これはそれほど的外れな言い換えではないと思うのですが、どうでしょうか?ちなみに、わたしの手元の 国語辞典をひも解くと、「くつろぐ(寛ぐ) 心身を休めたりきゅうくつな姿勢・服装をやめたりして、 ゆったりとした気分になること」とあり、用例として「仕事を終えて家でくつろぐ」という文が挙げられています(『明鏡国語辞典』大修館書店)。そうすると冒頭の『パンセ』からの引用は「本当にくつろぐことができないというところから人間のあらゆる不幸が生じてくる」というふうに短くまとめることができます。わたしはパスカルのこの洞察-あるいは人間診断と言ってもいいと思いますが-は真実を言い当てた実に素晴らしいものだと思っています。もしわれわれが心底くつろぐことが できるようになれば人間の不幸を根本的に乗り越えることができるという解決の方向性が、つまり単なる診断だけでなくその治療法、解決法も、暗に示されているからです。

もしも不幸にではなく幸福 になりたいと願うのなら、われわれは「くつろぐことができる力」をなんとかして身につけ、それを育てていかなければならないということです。 しかし、ことはそう簡単ではありません。先ほどの引用にもあったように、パスカルは「まったき休息」つまり「くつろぐこと」は「人間には最も耐え難いことだ」と言っています。われわれにはくつろぐことは「至難の技」だというのが現実なのです。 最近読んだ古東哲明氏の『瞬間を生きる哲学—〈今ここ〉に停む技法—』(筑摩書房)という本のなかに、著者の訳で「あなたはこの世でくつろいだことがない。あなたはいまだかつて、《ここ》にいたことがない。いつもどこか《よそ》にいる。あなた自身の一歩前かそれとも一歩後に。まるで秋の瞳に宿っている冬のように。それとも春の瞳に映っている夏のように。それとも過去か未来の世界に。」というエドモン・ジャベス(Edmond Jabes 一九一二〜一九九一 エジプト生まれのユダヤ人詩人)の『問いの書』(Le Livre des Questions)からの一節が紹介されていました。

この詩人もパスカルと同じ洞察を持っていたようですね。ジャベスによれば、われわれはまだ「この世でくつろいだことがない」。だから、そもそもどういうことが本当にくつろぐということなのか、 それが実感として全くわからない、知らないというところから出発しなければならないのです。パスカルの診断を受けて、われわれが不幸から脱するために、もうこれ以上不幸を生み出さないために、くつろぐことができるようになろうとするとき、これがまず最初にぶつかる問題です。「くつろぐこと」、それはわれわれがまだ経験したことのない未知の領域に到ろうとすることだったのです。 それに加えてもうーつ厄介な問題があります。くつろぐということは少なくとも、目的意識やはからいといったものからすっかり解放された状態になることですから、くつろぎを目的意識やはからいに染まった行為によって獲得することはできません。くつろぎを手に入れるためのマニュアル、メソッド、あるいはテクニックを作って、それに従ってくつろぎを手に入れようと頑張れば頑張るほど、逆にくつろげなくなってしまいます。こちらの願いや期待、努力とは裏腹に現実はくつろぎからますます遠ざかるばかりです。眠りと同じようにくつろぎ-実は幸福とか友愛といった人生において本当に大切なものはみんなそういうものだとわたしは思っているのですが-は力ずくの努力によって強引に奪いとれるようなもの、つかみとれるようなものではないのです。むしろ、こちら側が「くつろごうとする努力」をやめて待っていることができるようになったときに初めて、向こう側からくつろぎが-恩寵のように、贈り物のように-おとずれてくる、現われてくる。どうも、そういうからくりになっているようです。それは、くつろぐことを直接の目的にしたアプローチではほんもののくつろぎに到ることはできない、ということです。くつろいでいることと、くつろいでいる状態を頭で考え、そうなろうと思って自分で何かを行なって得た(ような気がする) くつろぎとではどこか出来が違うのです。

こう考えてくると、「くつろぐ力」というのは「わたしが〜する」という積極的、能動的な力ではなくて、「〜をやめる」、「〜しない」という消極的、受動的な力としてしかあり得ないということに なります。

 こういう消極的な「力」について、イギリスのロマン派詩人のジョン・キーツ(一七九五〜一八二一)が弟宛の書簡のなかで「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」という言葉を造語して次のように言っています。「どのような特質(これはシェイクスピアが非常に豊かに持っていた ものですが)が偉大なことを成し遂げる人、ことに文学において偉業を達成する人を形成するようになるのかということがただちに私の脳裏にひらめいたのです。それは、あえて消極的でいられる能力(Negative Capability)、すなわち、事実や理屈を苛立って追い求めたりせずに、不確かさ、謎、疑間のなかに安住していることができる状態、ということです。」

くつろぐことができる能力はキーツがここで言っているネガティブ・ケイパビリティとほとんどぴったり重なっています。わたしが思うに、哲学者のパスカルと詩人のキーツ、この二人は実は同じような性質の力、能力を問題にしています。パスカルはその能力がないことが人間の不幸の原因である と言い、そしてキーツはその能力を持つことが人間の創造性の原動力となると言っているのですが、 文脈は異なっていても、二人ともがこの上なく重要なものとして注目しているのは同じ能力なのです。「事実や理屈を苛立って追い求めたりせずに、不確かさ、謎、疑間のなかに安住していることができ ること」、これは「くつろいでいられる能力」に他なりません。

わたしはかれらの洞察に全面的に賛同しています。幸福で創造的な人生を生きるには、確かにくつろぐ力、ネガティブ・ケイパビリティを身につけ、磨いていくことが必要だと思います。しかし、今の学校や社会では積極的、能動的な力、つまりポジティブ・ケイパビリティのみが重視され評価されているのが現状です。それは、「何をすることができるか」ということだけが問題にされているということです。そこでは「そんなところに腰を落ち着けてボーっとくつろいでいないで、さっさと何かをしなさい!動きなさい!あなたに何ができるかを見せなさい!さもなければあなたに価値はない」という暗黙のプレッシャーがいつもわれわれを突き動かそうとしています。「猫の手も借りたいほど忙しいのが現実なのに、くつろぐなどという悠長なことはあってはならないことであり、それを能力として伸ばすなんてとんでもないことだ」というわけです。

しかし、偉大なことを成し遂げる人の最大の特質としてネガティブ・ケイパビリティに注目したキーツなら「まあそう言わないで何はともあれ、何もしないで、そこに坐ってゆっくりくつろいでごらんなさい。そこから新しい何かがきっと始まるかも知れませんよ」と言うことでしょう。パスカルなら「みなさんはくつろぐ力の意義をもっと真剣に考えるべきです。人が当たり前に部屋で安穏にくつろげるようになればなるほど、それだけ不幸の原因が少なくなるのですからね」と言うはずです。 もちろん、積極的な「する」力を伸ばすことが決して悪いわけではありません。それが必要な局面があることは確かです。ただ、現在の風潮ではあまりにもそちらの方にばかり眼が向けられていて、 生きることを全体として見たときにあまりにもバランスを欠いていることが問題なのです。吸う息ばかりではなく、吐く息も同じように必要であるように、活動的な昼間だけでなく休息のための夜が必要であるように、そして手を上手に使うためには、つかむことばかりではなく放すことができなければならないように、消極的な「しない」力、「やめる」力の意義がもっと真剣にとり上げられ、そういう力の育成にも正当な光を当てるべきだと思うのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

〔藤田一照 一口コメント〕

僕の禅の師匠のそのまた師匠の内山興正老師は、西洋文明は「進みの文明」、東洋文明は「安らいの文明」と言いました。科学技術を生み出し、拡大していった「進みの文明」がアジア的停滞を見せていた「安らいの文明」の中に過激に進出してきたのが近・現代の歴史の流れだったのではないでしょう。社会学者の見田宗介さんとお話ししたとき、「現代は第Ⅱ局面の大爆発期から第Ⅲ局面の安定平衡期への過渡期にある。どうやって安定平衡期に入るかが難問題です。」とおっしゃっていました。われわれはそういう大きなカーブに差し掛かっていますが、この減速しつつカーブを曲がるという技術はなかなか難しく、カーレースでもレースカーがカーブを曲がりきれないで観客席に突っ込んでいくシーンをよく見ます。下手するとそうなりかねません。「進み」か「安らい」かという二者択一ではなく「進みつつ安らう」「安らいつ進む」という止揚統合の路線が模索されなければなりません。そういう意味合いにおいて、坐禅はまさに進みつつ安らい、安らいつつ進むあり方が見事に受肉されたものではないかと思うのです。坐禅の現代的な意味は、そういう角度からも考えられるはずです。

 

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