永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」appamadaに坐る坐禅2 】

 そういう時代の動きを背景にしながらわたしは、中村元氏が「怠ることなく修行を完成なさい」と訳した釈尊最後の言葉を調べ直す作業を始めたのだった。

特に「怠ることなく」の部分が、原語ではどうなっているのかということに関心があった。

わたしはそれまで、その部分を「修行をさぼることなく一生懸命に」と理解していたのだが、果たしてそれで良かったのだろうか、もっと深い意味が込められていたのではないだろうか、それを読み落としていたのではないかと感じたからだ。

岩波文庫版には訳者の中村元氏の詳細な訳注が付けられていた。

以前にはそこに眼を通していなかったので改めてそれを読むと「怠ることなく」のところのパーリ語はappamadaであるということがわかった。

当時はアメリカに住んでいたから、この釈尊最後の言葉が英語では何と表現されているのかということも調べてみた。

今のようにインターネットで検索することなど思いもよらぬ時代であったから、毎週坐禅会をやっていたいくつかの大学の図書館に足を運んで、何種類かの『大パリニッバーナ経』の英訳本を借り出して ひも解いてみた。

下記にその訳文のいくつかを紹介しておこう。

 1. All component things in the world are changeable. They are not lasting. Work hard to gain your own salvation. 

2. All compounded things are subject to vanish. Strive with earnestness! 

3. All component things must grow old and be dissolved again. Seek ye for that which is permanent, and work out your own salvation with diligence.

4. All conditioned things are of a nature to decay‐strive on untiringly. 

5. Conditions are subject to decay.Work out your salvation with care. 

もちろん、特に興味があったのはappamadaの部分の訳である。

そこがどう訳されているかを見てみると、1ではhard(一生懸命に)、2ではwith earnestness(真面目に)、3ではwith diligence(勤勉に)、4ではuntiringly(ひたむきに)、5ではwith care(気をつけて、配慮をもって)となっている。

他にもheedfulness(注意深さ慎重さ)とかvigilance(警戒、用心、寝ずの番)というような訳もあった。

それぞれ微妙に訳のポイントが異なっている。

これだけ訳語がいろいろ存在するところを見ると、appamadaというコンセプトを、うまくカバーできる適当な訳語が 、英語の語彙の中には見つけにくいということがうかがえる。

中村氏は「怠ることなく」と否定形で訳しているが、以上の例では、4のun-tiringly以外は肯定形で訳しているところが興味深い。

実は、パーリ語ではa-というのは「無」とか「非」、「不」といった否定辞として働く。

たとえば、「無我」や「無常」のパーリ語原語である、anatta(アナッタ)やanicca(アニッチャ)を見ればわかるように、最初にa-という否定辞がついてい て、その後ろにくる「我atta」や「常nicca」を否定している。

今問題にしている、appamadaも最初のa-は否定辞で、そのあとのpamadaを否定している。

だから漢語にすれば「不放逸」ということになる。

中村氏の「怠けること無く」もそれに忠実に従って否定形で訳しているのだ。


したがって、appamadaというのは、pamadaが否定されている状態を意味している。

ではpamadaというのは、どういう状態を言うのだろうか?

pamadaと言われる状態にある人は、酒を飲んで酩酊している人のように制御不能状態に陥っている。

読者のみなさんも、一度や二度はそういう状態になったことがあるのではないだろうか。

それがどんな状態であったかを具体的に思い出していただきたい。

たとえば、自分の場合を思い出してみると、素面(しらふ)の時のように首尾一貫性を保てなくなっている。

自分のすることや言うことに軽率になっている。

実際に何が起きているかに気づくことができなくなって、翌朝、一緒にいた友人に「昨夜お前はこんなことを言ったぞ、あんなことをやったぞ」と言われても全く思い出せなかったりする。

ある意味、意識を失ったような状態で、支離滅裂でとりとめがなく、後になって後悔や絶望を招くような意識状態だと言える。

それは「自分が何をしているのかわからない」、正体を失ったような状態だ。 


その言葉で思い出すことがある。

イエスが十字架にかけられたとき、それを取り囲む群衆が、「お前はメシアではないか。自分を救って見よ。そうしたら、信じてやろう」と言ってかれを口々に愚弄した。

それに対してイエスは、「神よ、彼らを許し給え。彼らは自分が何をしているかがわからないのです」と言ってとりなそうとしたと聖書に書かれているエピソードである。

そこでイエスが「自分が何をしているかがわからない」と言った状態が、まさにpamadaではないだろうか。

中村元氏の訳注には「怠ることなく修行を完成なさい」のパーリ語原文が記されていて、それは appamadena sampadethaであるという。

直訳すると「ぼんやりと放心することなしに、気をつけて、一切のなすべきことを実現せよ」となるとのことである。

だからappamadaというのは「ぼんやりと放心することなしに、気をつけていること」だということになる。

したがって、単に「一生懸命に頑張る」というような意味だけではなく、昨今日本でも耳にすることの多くなった「マインドフルネス」や『仏遺教経』、『正法眼蔵八大人覚』にも取り上げられている「不忘念(ふもうねん)」とも大きく重なる、仏教で非常に重要な「刻々に目覚めて生きる」という根本的な態度を意味しているのである。

このように考えてくると、釈尊が弟子に言い残したかったのは「酔っぱらったような状態で修行してはならない。

はっきり酔いから覚めて修行しなさい」ということだったといえるだろう。

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋