【坐禅講義48】第三講:坐禅を助けてくれるもの
藤田 一照 藤田 一照
2018/02/02 07:06

【坐禅講義48】第三講:坐禅を助けてくれるもの

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【坐禅講義47】第ニ講:サポートを受けとって坐る坐禅

 例えば坐禅のとき、からだの中心軸が重力の方向に沿ってまっすぐに直立しているという事は正身端坐の条件としてとても重要です。

しかしこれも自分の意志的な努力だけで成り立っているのではなく、そこには実にいろいろなサポート、助けが働いているのです。


内外の自然からきている助けに比べれば、自分が自覚してやっている努力はほんのわずかでしかありません。

坐禅しているときに、自分が今使っていると意識できている能力など実際に働いている能力の全体から見たらごく一部にすぎないのです。

今、自分が生きていることを支えてくれている働きがどれほど凄いものなのか、今、自分が現にこうして坐禅することができている事実が成り立つためにどれほどの自然の力が自分のあずかり知らぬところで費やされているか、われわれにはその全貌を測り知ることはできません。

測り知ろうとすることそのものもまたそういう力の働きに拠っているからです。

しかし、自分がやっていると思っていることだけで坐禅ができているのではないことは確かです。

自分なりの最低限必要な努力はもちろんしているのですが、それよりもっと大きなものが黙って助けてくれていることをしみじみと感じながら坐っているのです。

もしも、「いや、そんなことはない。

おれは自分の意識的努力だけで坐禅をしている」と言う人がいるなら、それは、自分で意識化できる限られた範囲の能力を意識的努力以外に何も感じられないほど濃厚に、一部に集中させているからです。

そのことだけに没頭して、他のことが眼に入らなくなっているのです。

坐禅にとってはこれは望ましいことではありません。

意識が把握することができる範囲内だけで坐禅を扱おうとしている強為の坐禅になっているからです。

云為の坐禅においては、意識としての自分は何もたいしたことはやらないで、いろいろなところからくる助けに安心して自分をゆだねて、ただそこに安らかに楽に存在しているだけなのです。

ですから、いろいろな助けにじっくりと親しむことができる視野の広さや余裕のようなものがそこに生まれるのです。

坐禅をしていると、折に触れてそういう助けの存在に自ずと、ふと気がつくときがあります。何気なく眼をやると、そこに前から支えがあった、助けがあったということを思いがけなく発見するのです。

まさに、「よくみればなずな花さく垣ねかな」(芭蕉)という感じです。そんなときは「ああ、この助けのおかげで坐禅ができていたのか」という驚きと喜びが湧いてきます。



そういうかたちで見つけた、坐禅を助けにきてくれている「なずなの花たち」をいくつか思いつくままに挙げてみましょう。

まずは、坐っている床からの支えです。

床から支えられていなければ、楽な直立姿勢は維持できません。

上方に向かって伸びやかに立ち上がっている上体は自分の筋肉の力だけで上に引き上げているのではありません。

逆に筋肉の緊張は最小限にしてからだをゆるめ、自分の体重が重力に引かれて床を下に押す力に対する反作用の力(ニュートンの運動法則のなかの第三法則である作用・反作用の法則)を坐禅の姿勢の中に無駄なくすーっと通すことで、余計な筋肉の緊張を使わなくても上体をまっすぐに上に向かって立てていることができるのです。

この場合、筋肉の主な役割は大きな力を出して上体を立てることではなくて、床からの反作用の力が上体の中をまっすぐ上に向かって通過するようにからだの傾きを正しく微調整することなのです。

体重を床にゆだねればゆだねるほど、まかせればまかせるほど、それだけ多くの力が床から返ってきます。

地球の中心に向かおうとする自分の重さにしても、その反作用として生まれてくるそれと逆方向の力にしても、わたしの意識以前の大自然の法則(わたしはそれを「般若」と呼びたいのですが)がただ働いているだけです。

どちらもわたしの修行以前からすでにそこに在るもので、こちらはそれに一方的に助けてもらうだけです。

ただ、その助けを邪魔しないように余計な手をなるべく出さないようにするつつましい努力や、そうした助けの存在を感知しありがたく受用する工夫は必要です。

われわれはその逆をやりすぎてしまう傾向があるからです。

だからネガティブ・ケイパビリティ、やらない能力を育てていかなければならないのです。

云為の力を真剣に修行し磨いていかなければならないのです。

それはすでにきている助け手を発見し、素直に受け入れる修行だと言えます。


藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋(P.**~P.**)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
坐禅と習禅を対照させて論じるときに、道元禅師の「強為と云為」という対比と並んでよく使うのは、ギリシア語の「テクネーとポイエーシス」という対比です。

自然が内に秘めているものを人間が狡知(こうち)や挑発を駆使して無理やりに外に取り出し、それを自分の都合のいいように利用していく、そういう営みをテクネーと言います。

これはテクノロジーやテクニックという言葉の語源になっています。

ポイエーシスというのは、自然が内に秘めたものを外に顕現させ、人に一方的に与えてくれて、人間は、それをありがたく享受して生活を豊かにしていくような営みのことで、ポエム(詩)の語源になっています。

このテクネーとポイエーシスの関係が強為と云為の関係にパラレルだとすると、坐禅は詩的なものでなければならないことになります。

坐禅では、技術的な洗練にとどまることなく(もちろんその必要性を否定するわけではありませんが)、詩へと昇華されなければならないということです。

それはまた、テクニックではなくアートだということです。

両者の違いは、たとえば、テクニック的にはなんの問題もないのに、芸術性が感じられない(〈音楽〉がない)人もいれば、テクニック的には稚拙でもそこに〈音楽〉性が豊かにある人もいるといった例で考えればどうでしょうか?

もちろん両者が高度なレベルでひとつになっているのが理想でしょうけど。

では坐禅は何のアートなのか?

art of allowing(そのままにしておく技芸)あるいはart of receiving(受け取る技芸)と言ってみてはどうでしょうか。




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