【坐禅講義47】第ニ講:サポートを受けとって坐る坐禅
藤田 一照 藤田 一照
2018/01/26 07:07

【坐禅講義47】第ニ講:サポートを受けとって坐る坐禅

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【坐禅講義46】第ニ講:自分が開かれていく

さて、尽大地と通い合っている坐禅は、坐禅している側からいえば、無数のサポート、支え、援助によって支えられている坐禅です。

ですからこういう坐禅を行じる上では、そういうサポートをどれだけ豊かに受け取り、活かせているかということが大切なポイントになります。

常識的な理解では、修行というのは自分の持っている力をどれだけたくさん使っているかということが大事なことであり、そのために自分の持っている力、個人持ちの力を増大させていくことが目指されます。

「自分の力を全部出し切れ! そういう力をもっとつけろ!」というわけです。
これは、これまでの講義で使った言葉で表現するならポジティブ・ケイパビリティ、強為の立場に立つ能力観であり修行観です。

修行によって自分に力をつける、これはある意味、われわれにはわかりやすいというか、親しみやすい考え方ですね。

わたしたちが「鍛える」とか「鍛錬」という言葉を使うときはたいていこういう意味合いで使っています。

そこでは楽をすることはタブー視されます。

そういうことをすると「サボっている」とか「怠けている」という非難を受けます。

修行というものは「きつく」なければならないのだから、「楽な修行」などというものは形容矛盾だとされます。


坐禅も安らかで楽そうに坐っていると「何をやっている! もっと気合を入れろ!そんな甘いものじゃないぞ」と檄を飛ばされたりします。

しかし、釈尊が坐っている像や絵を見ても、どうも「気合を入れて」必死の形相で歯を食いしばって、「きつい坐禅」を我慢して坐っているようには見えません。

何かに耐えているどころかとても楽に、安らかに、ごく自然に坐っているように見えます。

いたずらな苦行を否定されたあとの坐禅なのですからそうでなければならないはずです。

われわれの坐禅が菩提樹の下での釈尊のそのような坐りを起源とし、模範としているなら、われわれもそのように楽に、安らかに、自然に坐らなければならないのではないでしょうか?

道元禅師も「坐禅は安楽の法門である」と『普勧坐禅儀』や『正法眼蔵 坐禅儀』で繰り返し説いています。

安楽というのは『禅学大辞典』(大修館書店)によると「身安らかであり心よろこばしいこと」とあります。


しかし、こんなことを言うと、たいていは「坐禅が安楽の法門だなんて何十年も苦修練行を重ねた者だけが実感できることであって、初心者や修行未熟な者の分際でそんなことを口にするのは百年早い!」というお叱りを受けることになります。

けれども、諸行無常を強調する仏教のなかで、たとえば「今は無理、長い修行を経たあとでなければ実現不可能」というような、未来があることをはじめから前提にしているかのようなことを言うのは筋が通らないことではないかと思うのです。

われわれの誰もが例外なく、明日をも知れぬ、いや次の瞬間に死ぬかもしれない身の上であるというところから出発して修行している以上、安楽の法門としての坐禅が、いくら初心者とはいえ、いくら修行が未熟であるとはいえ、今ここで坐る坐禅において実現していなければならないはずです。

次に坐禅する機会が確実にあるという保証はどこにもないというのが仏教の立場なのです。

すから今の一坐に、たとえ砂粒ほどの小ささでも、毛筋ほどのわずかさであっても、正真正銘の安楽さという質が備わっていなければならないのです。

そのためには実践する側がそういう真剣な問題意識と、道元禅師が言う「審細」な工夫を持って坐禅に取り組むべきことはもちろんですが、指導する側もそういう坐禅が現前するような指導をするべく尽力すべきです。

「そのうち、いつか、そうなるから今のところは我慢して、辛抱して、頑張って坐っていなさい」としか言わないで放っておくというのは怠慢というべきではないでしょうか。

それでは安楽の法門を開くどころか、閉ざすことにならないでしょうか。

もしかしたら、安楽の実現を未来に先延ばしするようなことを言うのは、安楽ということを、坐禅に慣れっこになることと取り違えているのではないでしょうか。

つまり、そのうちに坐禅の苦痛や不快感に耐えられる我慢力がついてくるから安楽に感じるようになる、坐禅がつらくなくなるということを言いたいのでしょうか。

しかし、そういうことが本当にここで言われている安楽ということの意味なのでしょうか? 坐禅の深まりというのはそのようなことを言うのでしょうか?


安楽というのは、坐禅を修行していくうちにいつかそうなるというような将来において獲得されることが期待される目標などではなく、むしろ坐禅が坐禅であるためのそもそもの前提条件であると考えるべきではないでしょうか。

つまり、道元禅師が言う「ちからをもいれず、こころをもついやさず」(『生死』)というあり方が、そもそもの最初から坐禅になければならないということです。

そうでなければそれは坐禅ではない、似ているけど別な何かだと言わなければなりません。

坐禅の深まりというのは安楽でなかったものがだんだん安楽になっていくということではなく、はじめからあった、備わっていた安楽という特質がますます向上し深まっていくということでなければなりません。


ですから、坐禅においてもし「鍛える」という言葉を使うとするならそれは、尽一切との繫がりを通してやってくるサポートや助けを最大限に活かすこと(「受用」)で、自分の身心の力の発揮、つまり余計な力みや緊張、頑張りを最小限にしていく方向へ向かっての鍛錬ということになります。

自分の力をいかにたくさん使って坐るかではなく、自分の力をいかに少なく使って坐るかを学ぶことです。

ですからそれは、まさに「楽をする」ことを学ぶ稽古なのです。自分が困難に耐えて頑張っているという努力感、手ごたえ、実感が少なければ少ないほど良いという、常識とはまるで逆の話になります。

尽一切と通い合っている坐禅では、自分の能力を最大限に使って自力で頑張るという修行のイメージを払拭し、他力の助けを十全に感知し受け用いることができるように、自分をどれだけオープンにできるかを学ぶことが修行だ、というイメージに入れ替えなければなりません。

自力の要素が少なければ少ないほど、努力している自分の存在感が希薄であれば希薄であるほど、尽一切の助けが損なわれることなく発現してきます。

したがって、こういう坐禅では自分が頑張っているという自己満足や確かに何かをやっているという常識的な意味での手ごたえはありません。

そのかわり、人間の姑息なはからいが作る不自然なもの、人為的なものが入り込まない、自然法爾の安楽そのものの坐禅がそこに立ち現われます。

そういう坐禅のなかにいる自分は何もしていないで、ただはっきりと覚めてそこにいるだけ、徹底してくつろいでいることができます。

安心立命、安身立命の坐禅です。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋(P.**~P.**)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
先日、演出家の竹内敏晴さんのもとで長年稽古をしてきた三好哲司さんとお話をする機会がありました。

3月下旬に開催される竹内敏晴さんをめぐるシンポジウムで三好さんと対談をするのですが、そのための初顔合わせでした。

実は僕は、大学院生時代に、竹内敏晴さんの「表現体育の授業」という授業を2学期間にわたって受けたことがあったのです。

その頃は、竹内さんと親交が深く、野口体操の創始者でもある野口三千三先生が指導する下落合の教室に熱心に通っている時期で、心理学が心理学的過ぎてからだを見落としていることに飽き足らない思いを抱いていた僕はお二人から、からだとはなにか、それにどう接近することができるか、という大きなテーマと明確な方向性を教えていただいた気がしています。

縁が巡り巡って、昨年は野口先生なきあと野口体操を引き継いで指導している古い友人から頼まれて、彼女が主宰する「野口体操の会」でワークショップをしましたし、今年は日本ソマティック心理学協会主催の竹内敏晴シンポジウムで登壇の依頼を受けました。

お二人から頂いたものへの恩返しのつもりで自分にできることをしたいという思いです。


さて、三好さんとの雑談の中で「リラックスした分だけ、集注できる」という言葉が彼の口から出てきました。

われわれが集注しようとすると、必然的に緊張するのが普通なのですが、実際はその逆にリラックスしなければ集注はできないのだというのです。

リラックスという条件下で初めて働き出す心というものがあって、その心はもともと集注する力をもっているから、こちらが強いて何かをする必要がないし、むしろ何かしてはマズイといったような話を二人でしたのでした。

ここでの引用のなかで書いているようなことを単なる理屈に留めるのではなく、実技として実証していくのが、われわれ坐禅修行者の課題だと思います。

自ずからなる集注(自らがする意図的な集中ではなく)の必須の条件として深いところからリラックスするというのが、調身(重力とのバランス)と調息(意図的操作の手放し)の勘所であり、それが調心(自ずからなる集注)をもたらすということなのかもしれません。

三好さんからいい参究課題をいただきました。

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