永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」〜最清浄法界等流の坐禅〜1 】

六月中旬に、所長をしている曹洞宗国際センター(サンフランシスコ)の仕事でアメリカに十日間ほど滞在してきた。

今回の渡米の目玉は、最近日本でも耳にすることが多くなった、マインドフルネスを社員の福利厚生に取り入れている、三つの会社で禅の講話やワークショップを行うことだった。

マインドフルネスといえば、最近、NHKスペシャル「シリーズキラー・ストレス そのストレスは、ある日、突然、死因に変わる」というかなり物騒なタイトルの番組の第二回目で、取りあげられていたのをご覧になった方もおられるだろう。

この番組のホームページには「今、世界が本気で取り組み始めたストレス対策。その背景にあるのは、ストレスが原因とみられる心と体の病の急増です。

第二回では、最新科学によってその効果が裏付けられた、誰にでもできる画期的なストレス対策を、世界の最前線から報告しました。

心をむしばむストレス、その正体として浮かび上がってきたのが、ストレスホルモンの『コルチゾール』です。

長く続くストレスで、コルチゾールが多量に分泌されると、脳の海馬で、神経細胞の突起を減少させることが分かってきました。

海馬は、記憶を司り感情に関わる部位。

損傷すると、認知症やうつ病につながる可能性が見えてきたのです。

こうした心の病を防ぐため、注目されるのが〝最新のストレス対策〞です。

認知行動療法をストレス対策に応用した『コーピング』。

そして、瞑想をベースに生まれたプログラム『マインドフルネス』。

世界中で注目される2つのストレス対策をご紹介します。」と、この番組制作の趣旨が説明されている。

この番組には、いろいろと突っ込みどころがあると感じたが、それはさておくとして、日本でもやっとNHKのこのような番組でかなりの時間を割いてマインドフルネスが紹介される時代が来たのだなと考えさせられた次第である。


幸い、現地でコンサルティングをしている友人の仲介のおかげで、Salesforce、Facebook、Starbucks という誰もが知っている大企業の本社で、一時間から二時間にわたる講話やワークショップをするという、貴重な経験をすることができた。

また、彼女が日本人最初の正式インストラクターである、Search Inside Yourselfという「Googleで生まれ、世界のビジネスリーダーが実践する、脳科学とマインドフルネスの能力開発メソッド」を学ぶセミナーも見学させてもらうことができ(そのセミナーの講師は、わたしの友人でサンフランシスコ禅センター系の僧侶であった)、これまでうわさや書物で間接的に聞き知っていた、ビジネスの分野におけるマインドフルネスのナマの現場を見聞することができた。

三つの会社での講話やワークショップをする前に、仲介をしていただいた友人の別荘で、今回いろいろお骨折りをしていただいたお礼も兼ねて、彼女の友人や、仲間三十人余りと一緒に三時間の坐禅ワーク ショップを行った。

参加したのは、経営コンサルタント、フィナンシャル・アドヴァイザー、IT系のエンジニア、セラピスト、教師といった、さまざまの専門分野でプロフェッショナルとして活躍している人たちばかりである。

みんな瞑想やマインドフルネス、ヨーガ、気功といったプラクティスに関心を持っており、もうすでに日常的に実践している人も何人かいた。


そこでのテーマとして、わたしが選んだのは「行とはなにか?」ということであった。

その背景には、現今のマインドフルネスや瞑想が、主観的な心境、あるいは人間に内在的な心的状態を醸し出すために、人間が人工的に案出した一種の技術、メソッドであるかのように理解され実践されていることへのわたしなりの疑問があった。

もちろん、マインドフルネスを技術として身につけようとすること自体を批判するつもりは毛頭ない。

しかし、そういう理解とはまったく異なる「東洋的行の世界」というものがあることをかれらに知ってほしかったのだ。

行の立場からすると、それが技術的なものになるというのは非本質化であり、そうならないように工夫し続けることもまた行の大切な要素になっているということを話したのであるが、拙い英語でどれほどのことを彼らに伝えられただろうか?

わたしは、坐禅は行の備えるべき特徴を、最も純粋に備えた「行の中の行」というべきものだと思っている。

いわば、行の純粋形である。

今回はその点から坐禅のことを考えてみたい。


行の大きな特徴の一つは、それがかならず何かを実際に、身体的になすということと結びついて成立しているという点である (坐るということも一つのれっきとした行いと言える)。しかも、ここで身体的と言った場合は、身心一如の意味での身体である。

身と心を別々なものだと考えて暮らしている、いわば身心分裂の状態にあるわれわれは、この点についてよくよく気をつけておかなければならない。

この身と心の分裂状態は、現代の仕事のあり方にも反映されている。

いわゆる知的労働は、コンピューターの前での長時間にわたるデスクワークに象徴されるように心に偏し、一方、肉体労働は労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を、笑いで表現しているチャップリンの映画『モダンタイムス』の主人公に象徴されるように身に偏していて、どちらも全身心的なものとは言い難いありさまだ。

余談になるが、(もちろん、ここで問題にしている坐禅は言わずもがなであるが)禅の修行の大切な要素である「作務」は、このような不幸な身と心の分裂を、高い統一へと回復するようなものとしてその意義を再考されなければならないと思う。 

 

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋