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【坐禅講義45】第ニ講:自分が開かれていく

尽一切と通い合っているという事実は坐禅の成果や結果としてそうなるのではありません。

坐禅をしようがしまいがそういうこととは関係なく、そもそもはじめからずっとそうであるし、いつもそうであるし、そういう事実の上で坐禅が行われているのです。

この事実は最も仏教的な教義と言われている「縁起(あらゆる存在は何らかのかたちでそれぞれが関わり合って生滅変化している)」の教えと同じことを別な表現で言い換えたにすぎません。

縁起という事実は釈尊が悟ることによってそうなったのではなく、悟る以前からそうであったというそういう厳然たる事実を発見したのです。

しかし、真実は縁起というあり方をしているにもかかわらず、われわれの現実世界はあたかも縁起の考えとは対極的な実体主義的な虚妄分別に基づいて展開しています(この虚妄分別自体もまた縁起によって生成しているのですが)。

この真実と現実のズレから、人間にとって様々な苦しみや問題が生まれてきているというのが仏教の洞察です。

そこに、事実としては縁起によって生きているのに、あらためて縁起を修行するという必要性というか課題がわれわれには出てくるのです。

いつでも尽大地と通い合って初めて存在できているわれわれが(われわれはそういう存在のあり方しか許されていません)、わざわざあらためて尽大地と通い合っている坐禅を修行するのは、そうしなければそこから宙に浮いた生き方を生理的にしてしまう生来の習性、傾向(凡夫性)を持っているからです。

尽一切の自己、常にそこに立ち返り、そこから出直し、出直ししながら新鮮に生きていこうという決意、つまり発心を絶えず更新し続けようというのが坐禅修行の方向性です。

縁起で生かされている自分を坐禅という行為を通して事実として証明する、自分が世界から分離しているのではなく尽一切と通い合っているがゆえに、その通い合いを今ここで自分の身心を舞台にして表現し、証するのが坐禅であるということです。


釈尊が菩提樹の下で発した「大地有情同時成道」という言葉も、自分と大地や有情を隔てている(と思っていた)バリアー、カーテンが実はもとから無かったという洞察によって、自分から消えたという自覚の表白です。

自分が知らないうちに、気がつかないうちに作り上げていた自他の境界が坐禅のなかで雲散霧消してしまったのです。

それが一時的で特殊な体験であるにとどまらず、釈尊の中で吟味され咀嚼され、もはやそれが神秘的なことでも何でもなく、ごく自然で当たり前のありのままのあり方だということが腑に落ちるところまで熟していったのでしょう。

境界がなくなった、というよりはあると思っていた境界が実は虚構でしかなかった、はじめから無かったものをあると思い込んで、錯覚していただけだったということが全身でうなずけたのです。

自分で自分を縛っていただけだった、しかも自分を縛る縄はそもそもはじめから無かった、つまり自縄自縛ではなく無縄自縛だった、と。

本来無縄無縛だということがわかってみると、この範囲内がわたしだと思って閉ざしていた領域がその境界のところで世界が遮断されているのではない、わたしと世界の間に厚い壁が立ちはだかっているのではなくて、いわば細胞を取り巻いている半透膜のように周りの環境と交流しつつ、通い合いながら内部の恒常性が一定に維持されているということが、ごく自然にうなずけるのです。

わたしが世界と、尽一切と切り離されているようにはもはや感じられなくなってくるので、わたしが坐っているのか世界が坐っているのか、そこではもうわたしと世界という二分法が意味をなさなくなってきます。

そうすると、わたしが広い世界の中で小さな坐禅をするのだと思っていたけれども、いまや尽一切の坐禅がわたしをしているとも言えるし、坐禅が坐禅をしているとも言えるし、坐禅という言葉も落ちてしまって、それがそれをしているという言い方をしてもあながちおかしくはないと思えてきます。

坐禅という言葉も一つの便宜的な名づけに過ぎませんから、もうこうなったら「それがそれをしている」と言うしかないということなのです。

坐禅は「それは~である」というような言い切り、断定をとうてい許さないものになります。

 

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋(P.**~P.**)より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
アメリカで坐禅の奥深さ、幽邃(ゆうすい)さについて話す時に、ここに書いているようなことをどう英語で言えばいいのかといろいろトライしてみました。
 
母国語でも表現が難しいことを母国語ではない言葉でどう言えばいいのか。
 
東洋のように「言う者は知らず」(『老子』)ではなく、その逆の「言わない者は知らない」が前提の「曰く言い難し」ですまされない文化の中でのそういう試行錯誤が自分を鍛えてくれたし、理解を深めてくれたと思います。
 
そこでひとつひらめいたのは、常識的には「わたしが~する」という能動態の表現をとるのが普通の事態を、敢えて受動態に代えて表現するというやり方でした。
 
たとえばI do zazenをZazen does IとかI have a mindをMind has Iとかにするわけです。
 
もちろん、英語としてはすごく変に聞こえますが、実はこっちの方が当たっているんだという説明をすると、なるほどと思ってくれる人も少しは現れるのです。
 
『禅マインド ビギナーズ・マインド』の鈴木俊隆老師が、普通ならthings as they are(ありのままのもの 真如の英訳か?)と言うべきところを、敢えてthings as it isと言い張ったというエピソードがあります。
 
「老師、直した方がいいですよ」と弟子が言っても、「いや、これでいいんだ」と直さなかったといわれています。

文法的に言えば、thingsは複数なのですから、それに合わせて当然they areでなければいけないところを、一なるものとしての真如ということを言いたくて単数形にしてit isとしたかったのかなと僕は思っています。

こういう文法破りの表現はネイティブ・スピーカー達にはなかなか思いつかないでしょう。

それを英語を母国語としない者が逆手にとって、新しい表現を発明するチャンスがあります。

仏法は常識にはそぐわない見地に立っているのですから、われわれが疑問を持たないような当たり前の表現を、仏法に則して吟味し、ドンドン言い直す練習をやってみるという取り組みが必要かもしれません。

 
 
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