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【坐禅講義44】第ニ講:人間性の封印としての坐禅

三業(身・口・意)に仏印が標されている坐禅では、それまで自分の所有物のようにして欲望充足のために勝手に使っていたこころやからだがもはや自分のものではなくなっています。こころもからだも自分のためには一切使いません、使えなくしてありますというのがあの坐禅の姿勢に込められた意味というかメッセージなのです。するとどうなるかと言えば、無償で借りていたこころやからだをそっくり大自然、つまり仏にお返しすることになります。そして、こころやからだが私的に限定されて使用されている状態から解放されて、大自然の働きそのもの、仏のかたよりおこなわれるものとしてそこに息づくようになります。

坐禅というと、どうしても自己の内面を探究することだとか、内的なこころの世界へ沈潜することだというような私秘的なこころの世界に関わることだというイメージで見られがちですが、道元禅師のいう坐禅は全くそうではありません。むしろそれとは逆の方向で、個人の意識の中という、限られた小さな世界であれこれとやりくりしている内向きな自分を外へ向かって開き、そんな自分も本当ははじめからずっと世界と繫がっていたことに目覚めていくこと、気づいていくことなのです。そういうあり方を単にアタマで想像したり考えたりするのではなく、身をもって実際に表現する、行為を通して表白すること、それが坐禅です。坐禅に親しむことによって、霧の中を歩いていると知らないうちに衣服が濡れるように、坐禅という行為の滋養物が身心に取り入れられて、いつのまにか無意識レベルでの自ずからなる変容が遂げられていくのです。

この変容というのは、意識としての自分に重きを置いて、そこから全てを眺め扱おうとする態度から、もっと基底的な存在としての自分が周りの無数の存在たちと同じ地平で繫がっているというところで感じ、考え、行動するという態度への変化です。もちろん、坐禅する、しないに関わらずその繫がりは厳然としてあるのですが、意識中心のわれわれの日常のなかではそれがすっかり眩まされて、あたかもそのような繫がりなどないかのような現実が事実としては展開されているのです。そういうあり方に慣れきってそこから全てを始めています。その現実もこの繫がりの上で初めて成り立っているにもかかわらず、です。仏教ではそういうわれわれの人生を「酔生夢死」と表現しています。それから覚める道が坐禅なのです。酔いや夢から覚めたとき、眼の前にあるのは前からいた部屋やベッドで、何も変わったわけではありません。しかし覚めたわたしはそこで、酔ったり夢を見たりしているときとは全く違う新しい生き方を始めるのです。

個人の中へと狭く閉じていこうとする態度が「凡夫印」であり、その逆に世界に向かって広く自分が開かれていこうとする態度が「仏印」だと言えるでしょう。このことが意味しているのは、仏印でおおわれた坐禅は、あらゆるもの、つまり道元禅師の使う言葉で言うなら「尽一切(全宇宙)」と通い合っているような開かれた坐禅でなければならないということです。ですから、何か一つのものやことを選択してそれに集中没頭し、それだけに注意を向け続けるという瞑想は、多くの場合内面的なものやこと(息、身体感覚、マントラ、ヴィジュアリゼーションなど)に集中していくのですから、尽一切とともに坐るという坐禅のあり方とは根本的に違うものだといえます。尽一切であるべき仏の行というその定義から外れてしまうわけです。そういう何か特定の対象への集中、没頭ということをやっては坐禅でなくなってしまうということです。

ただ気をつけなくてはいけないのは「尽大地と通い合っているような坐禅」といっても、それ自体を体験の内容とすることは絶対にできないということ、またそういう尽一切との合一体験を得ることを目指して坐禅をしているのでもないし、そういう坐禅をしてはいけないということです。尽大地と通い合っているという事実は推理というか推測することはできます。つまり言葉によって語ることはできますが、それ自体を経験することは不可能なのです。ですからそういうことができる、あるいはそういう体験をしたというのは、あり得ないことが可能であり、またそのあり得ないことを体験したと主張するのですから、それは神秘主義になってしまいます。仏道は神秘主義の立場をとらないのです。そういう体験はあくまでからだの一部である脳がある条件下で作り出した幻影、錯覚であるとしてそこに重きを置きません。只管打坐の坐禅の伝統では、そのときそのとき立ち上がってくる体験はどのようなものであれそれはそれとしてしっかり受けとめますが、特定の体験に特別な意味を付与して、特別扱いしたり、特に重視するようなことはしないのです。いくら特別な体験であるとしても、それはどこまでも「自分にとって」特別であるだけであって、そうである限りは吾我の領域内のことだとされるからです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
道元禅師は「二乗自調の行」は決してやってはいけない、ということを強い言葉で言われています。
自調の行というのは、たとえば、息を数えて心を静めていくようなことです。
僕はそういう文章を初めて読んだとき、「え、ああいうことはいけないんだ!?」とひどく驚きました。
そういうやり方は「数息観(すうそくかん)」といって、禅の世界では坐禅の初心者がたいていはじめに習うとてもよく知られた観法で、実際のところ、僕が臨済宗の修行道場である円覚寺で初めて坐禅をしたときにも、それを習ったからです。
ところが、道元禅師はそれをやってはいけない、と言うのです。
それは何故なのでしょうか?ここをよく考えてみなければなりません。
ちなみに、二乗というのは声聞と縁覚という、いわゆる小乗仏教的な教えと実践、そしてそれを奉じている人たちを指します。
つまり大乗的ではないということです。
ですから、二乗自調の行と言うのは、大乗的ではない立場で、自分で自分を或る状態に持っていこうと努力するような行法のことを指しているわけです。
僕の言い方だと、自我意識主導で、あらかじめ設定したなんらかの目標、目的に近づいて行こうという構えで行う理想主義的な営み、ということになります。
どんなに高尚なことを言っても、とどのつまりは結局、誰でもないこの自分の理想を達成して物足りようという思いに導かれてやっているわけです。
坐禅はそういう営みではまったくないのですから、もし、二乗自調的なやり方で坐禅を行ってしまったら、それは坐禅とはまったく似て非なるものになってしまいます。
道元禅師は、その似て非なるものを「習禅」とも呼んで、「坐禅は習禅にはあらず」とはっきり言明しているのです。
この区別が決定的に重要だというのが『現代坐禅講義』を書いている時の大きなテーゼでした。