(前の記事)
【坐禅講義43】第ニ講:自力行ではない坐禅

人間を他の生き物から区別する大きな特徴として、二足歩行、手による道具の操作、言語の使用、そして抽象的な思考活動の四点が挙げられると思います。いずれも長い間の進化の過程で人類が獲得した、万物の霊長としての人間が自ら誇りにしている勝れた能力です。しかし、坐禅においてはそれらの四つの能力の全てがみんな「封印」されてしまいます。

「右の足を持って左のももの上に置く、左の足を右ももの上におく」結跏趺坐、あるいは「ただ左の足を持って右のももを圧する」半跏趺坐で脚をしっかり組むことで、二足歩行の能力は一時的にですが使用不可能になります。これでは好ましいものやことを追いかけたり、好ましくないものやことから逃げることはできません。ですから、脚をそのように組むということは、自分の都合で移動しません、追ったり逃げたりはしませんということをからだで表明していることになります。

「右の手を左の足の上におき、左のたなごころを右のたなごころの上におき、ふたつのおやゆびを、むかえてあいささう」と『普勧坐禅儀』に示されているような仕方で両手を組むことで、直立姿勢の獲得によってからだを支持する役目から解放された手が得た、道具を操作する能力が使えなくなります。これは自分の欲求を満たすために手を使って道具を操作し外界に働きかけることはしませんということの表明です。

「舌はかみのあぎとに掛け、くちびるも歯もあい着くべし」というやり方で口を閉じることで、社会的動物といわれる人間にとって非常に重要な意味を持つ言葉を発する能力を発揮することができなくなります。これは言葉を使って他者とのコミュニケーションをはかり、取りひきやかけひきはしませんということの表明になります。

「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」という思いの手放し状態でいることは、人間において高度に発達した概念操作による抽象的思考能力(そこに無いものを言葉の力によって喚起できる能力)を一時的に放棄していることになります。これは頭であれこれと過去や未来のことについて考えをめぐらしたり、どうしようこうしようとはからったりしないということの表明です。

このように、坐禅をするということは必然的にというか、自動的に人間を人間たらしめている、少なくとも四つの能力を封印することになっているのです。ですから、坐禅は「人間が人間らしいことを何もしていない姿」であると言えるでしょう。澤木老師の「人間をちょっと一服したのが仏じゃ。人間がエラくなったのが仏じゃないぞ」という名言から借りれば、坐禅はまさに「人間をちょっと一服した」姿そのものなのです。

坐禅の作法にしたがって脚、手、口、アタマをしかるべきあり方、状態におさめるということは、それらを普段の生活活動においてやっているように、自分の都合のためには一切使いませんと無言で宣言していることなのです。普段のわたしは脚、手、口、アタマをいつも自分の満足感の追求のために使っていますが、坐禅においては身・口・意のそういう凡夫的使用が封印されてしまうのです。

道元禅師は『弁道話』の中で坐禅のことを「三業に仏印を標し(身は結跏趺坐して動かず、口は閉じてしゃべらず、意は非思量で思いの手放し)三昧に端坐する」と表現していますが、坐禅のときの脚、手、口、アタマには「仏印」、つまり仏であるというしるしがついていると言うのです。とすると普段のわれわれのからだやこころには「凡夫印」がびっしり張りついているということになりますね。そういう凡夫印をみんなはがして全部仏印に張り替えることで、凡夫の生身がそっくり全て仏のからだになるということが坐禅では起きているわけです。これを瑩山禅師の『坐禅用心記』では「即標諸仏体(諸々の仏の体を即標する)」と言っています。つまりたちまちに諸々の仏のからだが現前するということです。

このように、坐禅はある面から見ると、凡夫のわたしにびっしりと仏印がはられることで、凡夫性に染まった行いが否応なしにできなくなっている状態だと言えます。いわば、凡夫のわたしが坐禅に磔にされているようなものです。われわれが坐禅をするときにしばしば味わういろいろな苦痛や不快感、ネガティブな感情や思いといったものは、自分のなかの凡夫根性がこうした封印によって身動きできなくなって上げている悲鳴なのかもしれません。『普勧坐禅儀』には「ただ打坐を務めて兀地に礙えらる(ただ坐禅を努力することで坐禅に邪魔される)」という表現がありますが、この坐禅に「礙えらる=妨げられる」という感じを表現したいと思って「封印」という表現を使ったのです。

しかし別な面から見れば、坐禅は確かに凡夫にとっては封印なのですが、仏の側からすれば、それは同時に仏性が生き生きと現前するような仏の開封となります。坐禅の姿のあらゆるところに仏のめじるしがはっきりと現われ、仏の働きが躍動しているのです。つまり坐禅では、凡夫が封じ込まれるという封印と、仏が踊り出るという開封とが同時に進行しているということになります。たとえば、結跏趺坐に組んだ脚はどうしたって二足歩行ができないのですから凡夫の側からすればそれは普通の意味での脚の機能としては死んでいることになりますが、坐禅という仏の姿(横山祖道老師の「坐相みほとけ」という言葉を思い出してください)から見ればその脚は仏のからだの欠かせない一部となって立派に「成仏」し、仏の荘厳をしていると言えるのです。手、口、アタマなど他のどの部分についても同じことが言えます。それらがみんな「わたしの所有物」から「仏=大自然の一部」へと存在の意味ががらりと転換してしまうのです。藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
坐禅においては「凡夫性の封印」と「仏性の開封」とが同時並行的に起きているということは、とても興味深いことです。
しかも、坐禅をしている当人はそのことを別に意識している訳ではないということも、その興味深さをさらに深くしています。
こういうことの全部が「坐禅の幽邃性」を成り立たせているのだと思います。
ある行為を遂行することが、同時に全く別のことを意味しているという事態を「二重作動」というそうですが、坐禅は二重どころか「多重作動」と言えるのではないでしょうか。
無限と言えるほどのたくさんの仏が一人が行う坐禅の功徳を計量しようとしても計りきることはできないということが、どこかに書かれていましたが、それは坐禅が多重作動だからです。
ですから、われわれ修行者ができることといえば、自分の坐禅の出来不出来を狭い心でああだこうだと心配するのではなく、自分を誠実に坐禅の中に投げ込んで行くことだけです。
自分の手の中に坐禅をつかもうとするのではなく、自分が坐禅に包まれていくのです。