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【坐禅講義42】第ニ講:坐禅の坐禅たるゆえん

このような意味で脱落した身心で行なわれている坐禅は、自覚できている範囲の限られた自分の能力だけで自力的な個人プレーをやっているのではありません。
それは、自分を取り巻くあらゆるものからの様々な助けや支え、自分の中にあるもののそのほとんどは自分が全く気づかぬままに発現されている能力のおかげをこうむって初めて成立しているという事実があるわけです。
われわれが坐禅を考える上で、そこが非常に大事なポイントになってきます。
もちろん、尽一切の側からすればただ尽一切しているだけで、坐禅を「助ける」ということなど全く問題にしていません。
しかし、坐禅している当人の意識からすれば、尽一切の働きが自分の坐禅を援助してくれているように感じられてしまうということです。

坐禅は普通、自力行の典型だと思われています。
しかし、道元禅師が『正法眼蔵 現成公案』に書いている「万法すすみて自己を修証する」という状態、これをかれは「さとり」であると言っていますが、その純粋形がほかならぬ坐禅だとすれば、それは普通に理解されているような意味での自力の行とは到底言えません。
道元禅師の著作にある「仏のかたより行なわれて……」とか「万法すすみて……」といった表現が示しているのは、「仏のかた」にしても「万法」にしても、無限なる何かがむこうから、自分のところにやってきて自分を現場として活き活きと働いているという見方です。
自分はそれをそっくり受用しその働きに安心して任せきっている、自分はそれを謙虚に注意深く見守っていて手を出さないようにしているのです。
こちらが何から何まで支配し管理し操作しようというのではなく、自分はここで待っていて向こうから来る働きにそのまま任せている、そういう絶対的な受身の態度です。
何がどう起こるかということはおまかせしているのです。
こちらはただ正身端坐に務めているだけです(「唯務打坐」)。
ですから、発信モードではなく徹底した受信モードの営みであるということになります。
そういう観点から、自力行だと思われている坐禅をもう一度洗い直してみる必要があるのではないでしょうか。
そして、そういうはっきりした理解と態度を踏まえて、実際にそのような坐禅を行じなければいけないと思うのです。

ですから必然的に、自分が何かをする、自分から積極的に何かをするという要素は、なるべく少なくする、最小限にしていく方向で坐禅の工夫が進められることになります。
つまり一般的に行なわれている「自分が主体になって何をどうやるか」という工夫とは逆方向になっていきます。
「する」工夫ではなく「やらない」工夫、「ただそこに在る」工夫というべきでしょうか。
普段、自分で何かを考えて、その考えに基づいて自分で良し悪しを判断しながらやっていくというモードにすっかり慣れている、あるいは条件づけられているわれわれにとっては、坐禅においてもそのまま放っておくと知らないうちに意識や思考が先行してからだやこころをコントロールするといういつもの「する」モードに戻ってしまいます。頭脳のどこかにある司令室に自分が陣取っていて、からだはそこから命令を下して操縦する機械、ロボットであるかのようなイメージを持ったままでは、「する」坐禅しかできません。
その「する」こと自体に多くの力が費やされてしまい、すでにそこに存在しているもっと大切なものの多くを受けとることがおろそかになってしまいます。
坐禅は意識としての自分がそこにまだない何かを得ようと努力することではなく、存在としての自分がすでにそこにあるものたちと一緒の在るという次元に帰っていくことなのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
上記の文章を書いたときには知りませんでしたが、5年ほど前にノースカロライナの禅センターに話に行ったとき、そこに参禅に来ているアレクサンダー・テクニークの先生からレッスンを受ける機会がありました。
そのとき、彼女からThe less we do, the deeper we see. という非常に含蓄の深い言葉を教わりました。
やることが少なければ少ないほど、より深いものが見えてくる、ということです。
以来、坐禅について話すとき、よくこの言葉を使うようになりました。たとえば坐禅中の呼吸ですが、どうしても自然な息の流れに干渉しようとする傾向が現れてきます。
入る息をさらに吸い込み、出る息をさらに押し出そうとするような傾向です。
意識が働いている時には、寝ている時のように、息をからだがしたいようにさせておくということは実際にはなかなか難しいのです。
自発的で生理的なものであるはずの呼吸が、ほとんどの場合、心理的な領域のものになってしまっているからです。
ですから、何かを変えようとは思わずに、呼吸の流れを意識するだけ、ということにはなかなかなりにくい。
坐禅の時は、呼吸が本当に自然なものになっているか、あるいは何らかの操作が起こっているか、それをただ繊細に感じとります。
干渉しようとする傾向はそのうちに消えていくでしょう。
その傾向を意識で何とかしようとするのは、それ自体がまた干渉になります。
道元禅師の言う「鼻息微通」というあり方は、こういう呼吸に関するThe less we do, the deeper we see.を通して、自ずと実現してくるのです。
 
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