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【坐禅講義41】第ニ講:坐禅と覚知

もちろんわれわれは訓練によって覚知の範囲をある程度広げることはできます。それが坐禅の目的ではないのですが、坐禅が深まってくれば、その副作用(?)としてそれまで微妙微細すぎて覚知の対象にはなっていなかったことをいろいろ感覚として捉えられるようになってくることは確かです。身心が調うことによって感覚器官の感受性が向上するということは間違いありません。これについては次の講義で話しますが、しかしそれも坐禅の全体のほんの一部でしかないのだということを忘れてはなりません(「参学眼力のをよぶばかりを見取会取するなり。……のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。」(『正法眼蔵 現成公案』)。意識としての自分が、存在としての自分自身を含めて全てのものに向かい合ったとき、わかることはほんのわずかなことに過ぎないということを忘れてはいけないのです。

坐禅の全体は覚知の範囲よりもはるかに広く、奥深いのです。どこまで分け入ってもここで行き止まりということがありません。その果てしのなさは、どこまでも澄み切って明るくはっきりとしているのに、決してその果てに届くことがない青空のようです。たとえば、これについても次の講義で詳しく述べますが、脳と脊髄をそのなかにすっぽりと浸している脳脊髄液は規則的な流動、還流を続けていますが、その動き自体は覚知の直接的対象にはなりません。それは身体各部の微細な動きを通して間接的に覚知されるのみです。脳脊髄液は当人の意識には全く知られないままに密やかに、しかし確かに、その人間が生きているかぎり流動を続けていのちを支え続け、覚知という生理的機能そのものを可能にしているのです。しかし「坐禅」といった場合に、われわれは「覚知によって捉えられる範囲」にのみ注目しそこに重心をかけがちです。それはわたしの覚知できる範囲内で坐禅を捉え、理解しようとすることに繫がります。しかし、実は「脳脊髄液の流動」のように、「覚知によっては決して対象的に捉えられないけれども、確かに存在して、覚知を下支えている世界」が覚知の「視野」の外(背後?)に広大無辺に広がっているのです。そのことにしっかり思いをいたさなくては「葦の髄から天井を覗く」愚を犯すことになります。

ここまでくると、「坐禅」とは覚知によってはかり知ることのできない「途方もないもの」、「幽邃なもの」という他はなくなってきます(薬山禅師はそこを「千聖もまた知らず」、つまり歴代の諸仏諸祖でもそれを知ることができないと言われました)。人間には「不知」(知りようがない)、「不会」(理解のしようがない)であるのが坐禅の坐禅たるゆえんです。だから坐禅を行じるしかないわけです。しかし、ありがたいことに、誰でも正しく坐禅しさえすれば、覚知を越えたところで尽一切が何の留保もなくそこに無条件で現成しているのです(「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」『弁道話』)。ただそれを自分が見ることができないというだけです。

われわれが坐禅に精出しているとき、この全体の外に出てそれを対象として眺めることはできません。だから、坐禅しながら坐禅の全体を見とどけることはできないのです。そういう不可能な企てに余計な気を回さず、安心して全てを坐禅に打ち任せてその全体につかり込んでいくこと、つまり今ここの坐禅が坐禅になるようにその工夫をただ専心に続ければそれで充分です。それが「只管打坐」といわれるゆえんです。

余談になりますが、坐禅についてよく言われる「身心脱落」、「脱落身心」ということもこの文脈で理解できないでしょうか。つまり、「身心脱落」とは、これまでメイメイの持ちものとして個人的・私的・限定的に使われていた身心が、坐禅においてそういう吾我による束縛や拘束から解き放たれて、本来の宇宙的・公的・無限なものとして自由に働いている状態になっているという事実の描写であり、またその事実に対する気づきの言葉、洞察の言葉でもあると解するのです。あえて体験的に言うならば、わたしの身心(=図柄)と周りの世界一切(=地)という二分法的ながめが脱落して、身心が尽一切の世界と一枚になった無限大の広がりとして感得されるのです(もちろんその果てを見届けることはできませんが)。そして、「脱落身心」とはこうして狭い殻から脱落した自由な身心が今ここの自己という具体的な身心として活き活きと自在に働いているという、同じ事実のもう一つの側面の描写であり、その自覚の言葉でもあるのです。これもあえて体験的に言えば、無限な全体がいまここに具体的身心としてのかたちをとって息づいている出来事として身心が感得されるのです。身心脱落、脱落身心、いずれも身心が尽一切に接続し、摂取され、そういう身心として働いている坐禅のありようを端的に捉えた言葉なのです。自分のものだと思っていた身心が実ははじめから大自然の一部であったという洞察であり、坐禅はそれをそのまま実修していることになります。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
自分が坐禅中に体験したことをもって、自分の坐禅の良し悪しを判定するする人がいます。
「今日の坐禅は気持ちよかった」、「さっきの坐禅は考え事ばかしして、だめだった」、……。
それはそれで、その都度の坐禅のデータとして取っておいて参考にして、後の坐禅の役に立てていけばいいのですが、問題はそれが坐禅の全体だと思いがちなことです。
そして、自分の体験したことだけを基に、坐禅を語ったり、自分が坐禅に才能があるとかないとかを考えたり、過剰に喜んだり、落ち込んだりするようになることです。
最近の脳の測定装置の発達によって、例えば慈悲の瞑想していると脳の特定の部分が活性化して、そこが分厚くなるといったような知見が得られています。
当人の意識としては慈悲の瞑想をしているだけなのですが、同時に脳では思いもかけないことが起きているということを意味しています。
これは、上記の引用部分で言っていることを強力にバックアップしてくれるいい実例です。
自分の意識のスクリーンに映ることの背後、あるいは外側で知られることなく多くのことが起こっているのです。
ですから、優先順位としては、意識でとらえられる坐禅の一部よりも、それも含めてある一定の時間、坐蒲の上で坐禅しようと坐り続けたという事実の方を上位に置くべきなのです。
坐禅はそうして、意識至上主義とか意識の内部に自閉されていることに無自覚な状態といった凡夫の深い眠りを破るものになるのです。