(前回の講義)

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今回は「声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)為(た)るべし。

那(なん)ぞ知見(ちけん)の前の軌則に非ざる者ならんや」のところを話します。

声色というのはわれわれの知覚対象である色・声・香・味・触・法の六境を代表させた表現です。

その外というわけですから、感覚を通してつかむことのできるものではないという意味になります。

今回の只管打坐雑考のところで、澤木興道老師の「仏法は無量無辺―おまはんのおもわくを物足りさすものであろうわけがない」、「仏法は広大無辺。キメてしまったらアタラナイ。鱈の干物のようなものではない。生きている魚にキマッタ形はないんじゃ」という言葉を引用してありますが、それはまさに坐禅が声色の外の威儀であるということをおっしゃっているのです。

「知見の先」というのは「声色の外」と対応していて、坐禅がわれわれの覚知認識という心の働き以前にある定めにしたがってなされるものだということです。

この二つの文が言わんとしてるのは、坐禅をわれわれの意識的経験の枠の中で理解してはいけないということです。

感覚や思考で坐禅を捉えようとすることは無限大の坐禅を有限の袋の中に閉じ込めようとするようなものです。

人間の持つ根強い分別的理解へ誘惑に抗して、坐禅を声色の外の威儀、知見の前の軌則としてそのままその全部を行為を通して承当するというのが只管打坐です。

仏教の修行はそういう坐禅に極まると言われるのもむべなるかな、です。

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