【坐禅講義41】第ニ講:坐禅と覚知
藤田 一照 藤田 一照
2017/12/15 07:06

【坐禅講義41】第ニ講:坐禅と覚知

知覚心理学が教えているように、われわれの覚知できる範囲はかなり限られたものです。
たとえばわれわれ人間が音として覚知できるのは振動数が一秒間に二十回位の低い音から、一秒間に二万回の高い音の間に限られているそうです。
この範囲外の音はわれわれには覚知できないので、われわれにとっては存在しないも同然ですが、それはそういう音が存在しないということではありません。
そういう音を覚知できる動物もいるし、何らかの機械を使って間接的にその音を検出することもできるからです。
それに意識で覚知できない音がわれわれの心理や生理に微妙な影響を与えているということだって十分にあり得ることです。
このように地平線(そこから先は覚知が届かない限界線)を本質的に持っているわれわれの有限なる覚知によって、尽一切と繫がっている坐禅の全体を捉え切ることは、当然のことながら不可能です。
どんなに覚知を一生懸命働かせてもそこで捉えられたものは、坐禅の「一部分」、「一側面」、「一面」でしかありません。

道元禅師はその著述の中で、われわれの覚知の限界性・部分性・一面性についていろいろ論じています。
たとえば『普勧坐禅儀』に「瞥地之智通」という言葉があります。
「瞥地」というのは「ちらっと見ること」でわれわれの覚知ではいかに頑張っても、坐禅の全体に対しては「瞥地」の域を出ないということです。
だから道元禅師はこの言葉によって、坐禅によって何か素晴らしいものを「ちらっと見た」くらいで有頂天になってしまうと、それに捉われて身動きできなくなるような羽目に陥るから気をつけよと注意をうながしているのです。
それがどのように深遠高尚な洞察、繊細微妙な覚知であったにしても(それはそれで貴重なものではありますが)、それは人間が人間であることからくる限定を必ず被っており、部分的・一面的であることをまぬかれることはできません。
またこういう言葉もあります。
「たとへば舟にのりて、山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず。
のこれる海徳、つくすべからざるなり」(『正法眼蔵 現成公案』)。
われわれは自分の見えている範囲のものだけを海だと思ってしまいがちです。
けれどもわれわれには見えていないところに「海徳」、つまり海としてのあり方、功徳がまだまだあるのだと道元は説いているのです。
覚知できないけれども厳然としてあるという事実を見逃してはなりません。

内山興正老師の作られた数多くの法句詩のなかに『覚知せざれども』という次のような詩があります。

//是の法は示すべからず 言辞相寂滅すればなり//(『法華経 方便品』)

 十方仏土中 覚知せざれども 十方仏土中

 覚知せざれども 受諸苦悩の故に只管打坐す

 覚知せざれども 自己正体の故に只管打坐す

 覚知せざれども 身心脱落の故に只管打坐す

 覚知せざれども 只管打坐の故に只管打坐す

(『御いのち抄』柏樹社)

自分にはその全体を覚知することはできないけれども、凡夫の身として様々な苦悩を受けるから、坐禅が自己の正体だから、身心脱落がわれわれの本来のあり方だから、われわれに可能な解脱の道は只管打坐しかないから、今一心に只管打坐の坐禅をしているということです。
人は自分が覚知できる範囲だけを自分の世界だと思ってその中で何とかうまくやりくりしようと常日頃は努力しているのですが、坐禅においてはそうではなくて「覚知せざれども」ということが大事だというところを内山老師は表現しようとしているのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
この文章を書いたのはもうずいぶん前のことになりますが、今また、ここで書いたようなテーマが、新たな意味合いを持って僕の脳裏を占めています。
正直なところ、以前に自分がこういうテーマでこういう文章を書いていたことをすっかり忘れていて、「なんだ、前にもこういうことを考えていた時期があったのか」と改めて驚いた次第です。
仏教が、とりわけ坐禅という行が問題にしているのは、覚知の内側に自閉している状態を破るということではないかという考えを、再度もっと広い文脈の中で確かめたいと思っているのです。
唯識無境ということの深い意味であるとか、意識というのはそもそも何であるのかとか、どうして物質としての脳から非物質的な意識が生まれることができるのかとか、そういったいろいろな興味深い問題がここに絡んできます。

その他にも、意識的な私が、意識できる感覚に、意識的に注意を向ける訓練をするということがメインになっているのが現今の世俗的マインドフルネスだとすると、この「覚知せざれども云々」という坐禅とは、その点で決定的に違っているということが言えそうです。
「自分が覚知できる範囲だけを自分の世界だと思って、その中で何とかうまくやりくりしようと」することのどこが問題なのでしょうか?
それはなぜ破られなければならないのでしょう?
そんなことが果たして可能なのでしょうか?
こうした問題を深く思惟してみることは、坐禅という行の特質をよく理解するうえで欠かせない作業だと思うのです。
坐禅をする者は、意識の届かぬところにあって、しかも意識を意識たらしめているような、それ自身は決して意識の対象にはならない働きというものへの視線を忘れないようにしなくてはなりません。

 

正会員になると
投稿にコメントすることや、禅コミュニティに参加することができます。
藤田一照への質問および
正会員向け坐禅会に参加することができます。