【坐禅講義40】第ニ講:魚と水
藤田 一照 藤田 一照
2017/12/08 07:07

【坐禅講義40】第ニ講:魚と水

そういうわけで、くどくなりますが、この辺の問題を「魚と水」の例でもう少し考えてみたいと思います。本物の生きた魚はそれがその中を泳いでいる水から切り離すことはできません。水とともにあってこそ活潑潑地(ぴちぴち躍り跳ねる生きのよいさま)に泳ぎ回る生きた魚といえるのです。だから、魚をその生きた姿のまま捉えようとするなら、魚だけでなく、魚と水を含む全体をこそ「魚」とみるべきなのです。しかし、常識的には、泳ぐ「魚」とその環境としての「水」というふうに、魚と水をまず分けてからその組み合わせとして全体を見ています。それはもうすでに分別の立場に落ちているといわなくてはなりません。そうではなくて、リアルにあるのは継ぎ目のない「一枚の全体」なのであって、いわゆる「魚」と「水」はそれを便宜的に分節したものなのです。それぞれ異なる相貌と機能を持つのでわれわれにはあたかも独立した二つの実体があるかのようにみえるだけです(「魚行いて魚に似たり」『正法眼蔵 坐禅箴』)。ですから禅的には、こういう継ぎ目のない全体そのもの(もちろん、それは動きのない固定的なものではなく、魚は泳ぎ水は流れる、そういう絶えず変化流動を続ける動的なものなのです)が「魚」であると言うべきなのです。常識的にはとんでもない話に聞こえるでしょうが……。

われわれが日頃やっているように、水と切り離され独立した個体としての魚だけに注目してそれを魚とするのは、水の外に取り出されて死んだ干物のような魚を相手にしているようなものです(「魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし」『正法眼蔵 現成公案』)。そういう水から切り離された魚はあくまでも抽象化された虚構の魚なのであって、宏智禅師作の『坐禅箴』にある「水清徹底兮、魚行遅々(水清くして底に徹す 魚行きて遅々たり)」という句が示すような、無辺際の水の中(魚はいくら泳いでも水を泳ぎ尽くすことはできない)で悠々と泳ぎ続ける本物の魚とは程遠い、われわれの観念のなかにしか存在しない架空の魚でしかないのです。だからここでも、「水清徹底兮、魚行遅々」というこの句の表している状況のまるごと全体がリアルな魚の当体を表現していると理解すべきだということになります。

坐禅を、坐っている一人の人間の身心の活動のみに限定して考えることは、魚を水から取り出して考えるのと同じ誤りを犯すことであって、坐禅を抽象化して捉えることに他なりません。そこでわれわれが見るのは干物になった死んだ坐禅の姿だけで、いのちの通ったみずみずしい坐禅の本来の姿は見失われてしまいます。魚にとって水に当たるものは、坐禅においてはわれわれの身心を取り巻く「尽一切」です。だから抽象化されないナマのリアルな坐禅の当体とは、坐禅しているわれわれの身心を含む「尽一切」からなる継ぎ目なしの無限大の全体であると言う他はありません。

まど・みちおさんの『コップ』という詩があります。これを引いて理解の助けにしたいと思います。

 コップの中に 水がある

 そして 外には 世界中が

 コップは世界中に包まれていて

 自分は水を包んでいる

 自分の はだで じかに

 けれども よく見ると

 コップの はだは ふちをとおって

 内側と外側とが一まいにつづいている

 コップは思っているのではないだろうか

 自分を包む世界中を

 自分もまた包んでいるのだと

 その一まいの はだで

 水ごと すっぽりと

 コップが ここに坐って

 えいえんに坐っているかのように

 こんなに静かなのは……

(伊藤英治・編 『まど・みちお全詩集』 理論社)


われわれが「えいえんに坐っているかのよう」なコップのように、じたばたしないで静かに坐っていられるためには、くつろいでいられるためには、こころのどこかで「自分を包む世界中を自分もまた包んでいるのだ」ということを知っているというか、それが信じられていることが必要です。尽一切は無限ですからそれをわれわれの有限な見聞覚知によって見届けることはできません。尽一切は言葉によって構想することはできてもそれを体験として覚知することはできないものなのです。しかし、尽一切を自分の体験の枠の中に押し込めようとするだいそれた企てを放棄し、そのことでかえって尽一切と徹底親しめるような可能性を開いてくれる、非常にユニークな行為があるのです。それが坐禅だということです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
《藤田一照 一口コメント》
われわれはうっかりすると、実は第一人称であるはずの事実を、第三人称的に「考えて」しまいます。この知らないうちの「すり替え」はけっこう重大な問題です。これを「地図と現地を取り違える」という言い方で説明する人もいます。仏教の話は行をしている当事者のこととして、つまり一人称のこととして受け取らなければ、他人行儀で水臭い一般人のための理論になってしまいます。誰にでもあてはまる普遍的な理論としてではなく、自分の身に引き当てて「これは私のことだ」と思って受け取らなければならないのです。でもそれがなかなか難しい。言語の巧みな詐術に引っかかってしまうからです。親鸞さんは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と『歎異抄』の中で述懐されていますが、このわれ一人のための行や教えとして、かたじけなく受け取られるところに法(教え)と機(われ)が一体になれる契機があるのだと思います。われわれで言えば、われ一人のためにこそ坐禅がここまで伝えられてきたという有難さの感覚ということになるでしょう。

 
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