【坐禅講義39】第ニ講:正しい坐禅の図
藤田 一照 藤田 一照
2017/12/01 07:07

【坐禅講義39】第ニ講:正しい坐禅の図

さて、「仏の行=坐禅=尽一切」という坐禅の基本公式からすれば、坐禅の図には、坐禅している人だけでなくその人を含んだ全世界・全宇宙、つまり尽一切が描かれていなければならないことになります。釈尊が菩提樹の下で坐禅している「釈尊成道の図」には、坐禅している釈尊だけでなく、大地や木や空や星などそれを取り巻く環境や世界がちゃんと描き込まれています。無限である「尽一切」を有限の紙の上に描き尽くすことなど実際には不可能なことですから、完璧な坐禅の図を描くことは厳密に言えば不可能です。それでも、この「成道図」は坐禅の図としてかなりいい線をいっていると言えるでしょう。ところが、われわれはこの図の中の釈尊の姿にだけ注目して、人間としての釈尊がやっていることが「坐禅」だと考え、その他の部分は坐禅の単なる舞台であるかのようにみなしがちです。つまり釈尊が「図柄」、その他は「背景」、「地」と見て、その「図柄」だけが坐禅であると理解するのです。釈尊が世界の中のある特定の場所で坐禅をしている、という見方です。こういう見方が常識でしょう。しかし、この成道図の正しい鑑賞法は、そういう「図」(釈尊)と「地」(釈尊を取り巻く世界)という二分法的見方ではなく、図全体を一つの継ぎ目なしのまとまりとして観るもっとホーリスティック(全体論的)な見方でなければならないのです。つまり、この図に描かれていることの全て、つまり釈尊と世界を合わせたその全体がそっくりそのまま「坐禅そのもの」である、坐禅の当体であるとするのです。釈尊を含む尽一切が一体となって坐禅をしていて、その坐禅のなかに釈尊もいれば、菩提樹もあり、山河大地もあり、明けの明星もあるという見方です。この見方では、釈尊も坐禅を荘厳する調度の一つになっています。あるいは釈尊≡世界≡坐禅(≡は「合同」であることを表す数学記号)と言う方が適切かもしれません。釈尊が成道されたとき、その結跏趺坐はもはや釈尊個人に限定されたものではなく、「三千大千世界の虚空に遍満」(『大品般若経』)した「無限大の坐」であったということです。釈尊はそのような坐禅を坐っていたのです。そういう坐禅が現前したからこそ人間釈尊が仏になった、成道したと言うことができたわけです。

釈尊が成道されたときに発したといわれている「我と大地有情と同時成道」という言葉はそのことを傍証してくれています。つまり、釈尊がそのとき行じていた坐禅が、「尽一切」から切り離された個人的営みではなく、「尽一切」をその内容とするような、あるいは尽一切と一枚であるような坐禅であったとするなら、その門下であるわれわれとしては、本当ならもっと雄大で無限のスケールの「坐禅の図」を構想することができなくてはならないはずです。そして、釈尊の坐禅がそうであったように、尽一切に向かってどこまでも開かれているような坐禅を修行するのでなくてはならないはずです。尽一切と通い合っているような坐禅はどのようになされるべきなのか、それを工夫するべきです。それなのに、坐禅の「図」にしても坐禅の「行」にしても、小さく限定された個人大のスケールにとどまったものが世間に流布しているようです。こういう矮小化された坐禅観で坐禅をすれば、坐禅の実践もやはりそれに相応して個人内のプライベートな営みに終始してしまいます。尽一切と通い合う坐禅を坐るためにはまず、そういう個人スケールの常識的な坐禅の見方を天地いっぱいの坐禅という大乗仏教にふさわしい坐禅観に入れ替えることがどうしても必要になります。この講義はそういう方向を目指して行ないたいと思います。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
 
《藤田一照 一口コメント》
最近、僕が坐禅の話をするときによく使うのは「意識の内部に自閉した状態が破られる」という表現です。普段のわれわれにとっては、意識されるものがすべてです。意識されないものは、無いのと同じです。それが無いということすら意識されません。これは、よくよく考えてみたらものすごく不思議なことではないでしょうか?

昔、安泰寺の冬季の勉強期間中に、仏教の基礎学としての唯識をテーマに勉強していた時、まずしょっぱなに「一切不離識 唯識無境」という言葉に出会いました。「すべては心の中にある、心を離れてはものは存在しない、心の外にはものはない」という意味です。この言葉の意味を実感しようとしてずーっとそのことを考えていたら、なんだか気持ちが悪くなってきたことがあります。

最近の僕が問題にしているのは、この唯識無境と坐禅の関係です。唯識無境という事実に目覚めるのが坐禅なのか、それともそういう状態を乗り越えるのが坐禅なのか、ということです。『現代坐禅講義』のこの引用部分で言おうとしていたことからみれば、どうも後者の方ではないかと思えます。道元禅師が坐禅に関して使う「非思量」という言葉も、「意識の内部の話ではない」という意味が込められているように思えます。坐禅を意識の自閉を破るようなものとしてとらえていくということを、ここしばらくはテーマにしていきたいと思っています。

 
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