永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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今年の四月から毎月一回都内で「仏教的人生学科一照研究室」という風変わりな名前のついた仏教を学ぶ集まりを主宰している。

参加者の年齢を四十代までと制限した、自分より若い世代のための仏教塾である。

すでにできあがった形の仏教を情報として受動的に受け取るのではなく、アタマもココロもカラダもタマシイもフルに働かせて全身心で「仏教する」ことをめざしている。

昼食&休憩の一時間を含む午前十時から午後四時までの六時間を毎回三十~四十名の塾生たちと一緒に過ごしている。

午前中は英文の仏教書をテキストにして仏教の独自な人生へのアプローチについて講義をしているが、われ われがそのテキストとして使っているのが、前回紹介したボストンのケンブリッジ・インサイト・メディテーション・センター(CIMC)の指導者ラリー・ローゼンバーグさんの著した Three Steps to Awakening: A  Practice for Bringing Mindfulness to Life(『目覚めへの三つのステップ―マインドフルネスを生活へともたらす修行』)である。

先日この仏教塾の前期最終クラスがあって、ちょうどこの本の第三章Choiceless Awarenessの講読をおこなった。

前回述べたように、ラリーさんは長年にわたってテーラワーダ仏教の『アーナパーナ・サティ・スッタ(入出息念経)』に基づく仏教瞑想を自ら修行し、また人にも指導してきたが、瞑想行の深まりとともに呼吸をことさらに瞑想対象として選ぶことが「余計で不必要に感じ」るようになり、「チョイスレス・アウェアネス(無選択の気づき)」と呼ばれる質の違う瞑想実践へと自然に展開していった人だ。

彼はそれを棒高跳びに譬えている。

高く跳ぶためには始め棒を必要とするが、バーを越えるためにはある時点でその棒を手放し、自分だけでただ跳ばなければならない、と。

かれは長年つきあってきた呼吸を手放し、特定の対象を決めることなしに、そのときそのときに起きてくる経験にただこまやかに気づき続けているという純粋でオープンな瞑想の方が今の自分にはぴったりだと自然に感じるようになったと語っている。 

かつてわたしが年に二回、かれが指導するCIMCに坐禅の話をしに行っていたころは「わたしの瞑想はあなたがやっている只管打坐の坐禅にだんだん近づいているんですよ」と話していたが、それはまだ彼の個人的な瞑想実践の話にとどまっていた。

指導者としてのかれは、センターに瞑想を学びに来る人たちに対してはそれまで通り『アーナパーナ・サティ・スッタ』に依拠する呼吸瞑想を教えていたのである。

しかし、それから十数年が経って一昨年に出版されたこの本では、かれは公にチョイスレス・アウェアネスの瞑想について述べており、現在の自分の瞑想実践はそれが中心であると、いわば「カミング・アウト」している。

『アーナパーナ・サティ・スッタ』に説かれている十六種の瞑想を濃縮した呼吸瞑想を二つ、そしてその後にチョイスレス・アウェアネスを加えて「目覚めへの三つのステップ」とした彼独自の瞑想のシステムを紹介したのがこの本なのである。

そしてこのチョイスレス・アウェアネスが彼にとって最終の結論とされている。

それだけの自信を持って、人々に語れるだけのものを自らの中に見出すことができたのだろう。

この主にテーラワーダ仏教の世界で(もちろん、ジドゥ・クリシュナムルティの流れを汲む人たちもこの用語を使うが)「チョイスレス・アウェアネス」と呼ばれている瞑想行は他にも「純粋な気づき (pureawareness)」とか「開かれた気づき(openawareness)」、「ミラー・マインド(鏡のような 心)」とか、さまざまな別名でよばれている。

そして、それはチベット仏教のゾクチェン(大究竟(だいくきょう))やマハームドラー(大印契(だいいんげい))の伝統では「無相の瞑想 (formless meditation)」、禅では「只管打坐」や「黙照」と言われているものに相当すると説明されている。

しかし、わたし自身は「チョイスレス・アウェアネス」を坐禅、あるいは只管打坐と単純に等置するのはいかがなものかと考えている。

坐禅には確かにそういう一面があることは間違いないが、それがすべてではないと理解しているからだ。

両者をイコールで結んで等置するのは行きすぎであると言わなければならない。

坐禅は「チョイスレス・アウェアネス」ではなく、それ以上の何かなのである。

道元禅師には「打坐を打坐と知る」という表現がある。

「坐禅とはAである」、「いや、坐禅とはBである」、...とあくまでも坐禅を他のものと置き換えて理解しようとするのではなく、そのような一切の置き換えを放棄してただ端的に「坐禅は坐禅なり」と承当するということだ。

「坐禅とは~である」という文章の「~」のところに坐禅以外のどのようなものを入れても、それは坐禅を何らかの形で小さく狭く限定することにしかならない。

道元禅師は坐禅を何か他のものに還元して概念的にわかろうとする人間的な欲求に対してきわめて批判的である。

それは無限定・無限大の坐禅の当体を人間的なサイズに限定化・矮小化することになるからだ。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋