【坐禅講義38】第ニ講:坐禅のスケール
藤田 一照 藤田 一照
2017/11/24 09:07

【坐禅講義38】第ニ講:坐禅のスケール

「坐禅というものを絵に描いてみてください」と言って、紙と鉛筆をお渡ししたらみなさんはどのような絵を描かれるでしょうか? きっとたいていの人は一人の人間が結跏趺坐をして坐っているところを描いて「はい、これが坐禅です」とさし出すのではないでしょうか。その絵は、人がまるで真空の中で坐禅しているようです。せいぜいのところ床や坐蒲が書き加えられている程度でしょうか。これは、わたしたちが「坐禅」ということを思い浮かべるとき、人間が単独でやっている個人的な活動として捉えているということを示しています。ところが道元禅師は、坐禅は、そのような個人が内輪で行なう小さな営みではないと説きます。また、そのような内向きの閉じた坐禅であってはならないとも言います。澤木興道老師も「坐禅は一人の人間が宇宙の片隅に閉じこもって小康を楽しんでいるような矮小なものではない」と言っています。ですからこのお二人にそういう絵を見せたら、一目見て「こんな自分にばかり焦点を置いた坐禅の絵では全く不十分だ。坐禅を正しく描いたものとは到底言えない。描き直しなさい!」とつき返されることでしょう。

道元禅師の著述のなかには、「尽十方界」とか「尽一切」、「尽大地」、「尽乾坤」、「尽地・尽界・尽時・尽法」といったわれわれの人間的な尺度では計量しえない無限のスケールを表す「尽(ことごとく 残らず全て、の意)」という語がしばしば見られます。そういう表現に親しんでいると、道元禅師が「坐禅」を論じるとき、その坐禅は、実はこういう広大無辺の「尽」というスケールにおいて語られているということがよく伝わってくるのです。例えば、『正法眼蔵 唯仏与仏』には、「仏の行は尽大地とおなじくおこなひ、尽衆生ともにおこなふ。もし尽一切にあらぬは、仏の行にてはなし」という一節があります。この文の中の「仏の行」は「坐禅」と置き換えてみることができます。他の場所で「坐は仏行なり」と言われているからです。ということは仏行としての坐禅とは、「尽一切の坐禅」でなければならないということになります。悠久なる天地と一体でなされなければ仏行としての坐禅とは言えないのです。

しかし、往々にしてわれわれは、メイメイ持ちの自分だけが、悟りを得よう、安心を得ようとして坐禅をします。そして、「求道」あるいは「修行」という名目のもとに、メイメイ持ちの自分が個人的な内面の苦悩を問題とし、それを解決するための「こころの工夫」に血道をあげ、ますます狭い煩瑣な世界の中にのめり込んでいくことになります。それは、迷いや苦しみから逃げ、悟りや楽を追いかける流転輪廻の延長に他なりません。そこには「尽一切」などという広々とした風通しのいい発想は初めからありません。「吾我」から出発して「吾我」に帰着するような自己愛的、自己陶酔的な営みというしかありません。しかし、澤木興道老師が言うように「メイメイ持ちの何かが少しでもあれば、純粋無垢でマジリ気のない坐禅にはならない」のですから、そのような自己閉鎖的な修行をいくら熱心にやってもそれを坐禅ということはできません。

「オレが、オレが」のとれた坐禅だけが真実である――それは坐禅が仏道にかなった坐禅であるためには妥協の許されない厳しい条件なのです。これは第一講でお話しした、坐禅は無所得無所悟で坐らなければならないこと、つまりいかなることであれ個人的なアテや期待を持ち込んでそれと道連れに坐っては坐禅にならないということに繫がります。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

 
 
《藤田一照 一口コメント》
アメリカで驚くような広がりを見せている、仏教に起源をもつ「マインドフルネス」が日本でも注目されています。アメリカで流行ったことがそのうち日本でも流行るようになるという現象の典型例なのでしょうか?一般の雑誌の特集になったりしているのを眼にすることが多くなりました。そこでコピーとして「~する力がつくマインドフルネス」「一日10分で毎日が楽しくなる」というような表現がよく使われています。臆面もなく(笑)その効果を前面に出してくるところに現今のマインドフルネスの特徴があります。

世俗というのはそういうものですからそれはそれでいいのですが、今回の抜粋で言われているような坐禅とマインドフルネスを混同されると困ったことになりますから、われわれとしてはその辺の違いをはっきりと心得ておく必要があります。道元禅師が「坐禅は習禅にあらず」と言ったように、現代版の「坐禅は~にあらず」という認識を持つということです。つい昨晩、送った原稿に下記のようなことを書きました。

……現今の世俗的マインドフルネスの実修では、たとえば、「呼吸に伴って下腹が膨らんだり縮んだりする動きに注意を留めるように」という指示がなされる。こういう指示を普通に受け止めると、ほとんどの場合、意識的な私が意識される下腹の感覚に向かって意識的に注意を向けようとするだろう。これではどこまで行っても意識の世界の中の営みに終始するほかはない。ここで言われていることがどれほど上手にできたとしても、である。このような意識の世界に自閉している状態から脱することが、坐禅ではないか。……
 
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