【坐禅講義9】序講:講義のねらい
藤田 一照 藤田 一照
2017/05/05 08:34

【坐禅講義9】序講:講義のねらい

わたしはこれからの講義を通して、このようなおんいのちに南無している坐禅、「負けて参って任せて待っ」ている坐禅の輪郭をできるだけ鮮明な線で描いていきたいと思っています。今われわれの周りでは様々な宗教的伝統のなかで練り上げられてきたいろいろな瞑想法やタイプの異なる坐禅――実は同じ坐禅という言葉を使っていても内実にはいろいろ違いがあるのです――が百花繚乱のごとく咲き乱れています。わたしはこのこと自体は決して悪いことだとは思っていません。それぞれの人がそれぞれの機根や必要性にあった行法を見つけて、それを実践することによって自らの人生を豊かで意味深いものにしていくなら、これほど喜ばしいことはありません。この一連の講義でわたしがやりたいと思っていることは、いろいろな瞑想法や坐禅の優劣を判定し、それらをランク付けすることではありません。ましてやわたしのしている坐禅をその序列のトップに置こうとしているのでもありません。

この最初の講義のなかでもすでにいろいろな言い方で指し示してきた「只管打坐の坐禅」だけを主題としてとり上げ、その坐禅が実際にどのようなものであるかを、できるだけ多方面から光を当てながら論じてみたいと思っているだけです。そういうわけで、これ以後「坐禅」という言葉を使うときは(これまでもそうだったのですが)、特に断らない限り「只管打坐の坐禅」を意味すると言うことをご承知おきください。

もちろんいくら論じても論じ尽くすことなどできないのが坐禅というものであることは重々承知しています。思いでは思えないこと、言葉では言えないこと、その実物を実際にやるのが坐禅だからです。しかし、わたしが見るところ、ここで話したいと思っているような坐禅はあまりにも誤解されたかたちで理解されています。あるいはまだよく知られてすらいないのではないかとさえ思うのです。そのせいでいわれのない批判やとり扱いを受けたり、正しく行じられないために本来の力、真価を発揮できていなかったり――というのが現状なのです。これではまさに宝の持ちぐされです。あまりにももったいないことだし、残念至極なことです。

こういう現状を踏まえて、坐禅はこういう素敵な姿をした奥深いものですということを、いろいろな描線を何本も引くことで浮かび上がらせてみたいのです。そうすることで、なるべく正確な坐禅の図を描くこと、それがこの講義のねらいの一つです。

もう一つのねらいは、そういう坐禅の図を単なる「絵に描いた餅」にとどめることなく、われわれのナマの身心を素材にして事実として修行し、その「図」を生き生きと現成させることができるような、いわば「受肉」させることができるような、坐禅の行じ方とはどのようなものであるべきなのかを解明することです。これまでわたしが参照した多くの坐禅の手引き書のなかで説かれている「坐禅の仕方」の通りにやったのでは、どうしても自分の身心で坐禅の図を描くことができそうにないか、あるいはたいへん難しいのではないかという印象を受けるのです。坐禅と似た外形にはなるのですが、微妙なところで食い違いを感じるし、なんといっても中身、実質が違ったものになってしまうように思えるのです。「形同実異(形は同じようでも中身が違う)」ということです。外見は似ているようだけれども、やり方そのものが坐禅に相応しない、ふさわしくないので、坐禅ではない何か別の営みになってしまうのです。それを一言で言えば意図的な作為や造作であってはならないはずの坐禅を意識的コントロールを通して作為的に、造作的にやろうとしているのではないかということです。ではそうではないとしたら、どのようなやり方が坐禅にふさわしいのか、坐禅がそこに自ずと生まれてくるようなやり方はどのようなものでなければならないか、それについて論じてみたいのです。
藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
わたしがこの『現代坐禅講義』を書いたのは、坐禅が人間技(人間技)としてテクニック的に理解されている現状を何とかしたかったからです。わたし自身も、自分の問題を解決するための便法として坐禅に近づいたのですが、学べば学ぶほどそれが見当違いだったことに気がつきました。そしてその見当違いこそが、問題の根っこだったのです。それが、「わたしの諸問題」から「わたしという問題」へという視点転換でした。わたしにいろいろ降りかかってくるあれやこれやの諸問題を何とかしなくちゃという外向きの視点から、そういうことを問題ととらえてしまうこのわたしが問題なんじゃないかという内向きの視点への転換ということです。これは大きなパラダイムのシフトでした。道元さんが「仏道をならふといふは、自己をならふなり」と言っていますが、禅の視線は明らかに実存的で主体的です。禅ではそれを「己事究明」という言葉で読んでいます。坐禅を自分の問題解決のために使うのが人間技ということの意味ですが、そういう虫のいい根性を相手にしないところに坐禅のユニークさがあります。


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