【坐禅講義36】第ニ講:坐相の深まりのために
藤田 一照 藤田 一照
2017/11/09 10:59

【坐禅講義36】第ニ講:坐相の深まりのために

長年慣れ親しんできて習慣と化した「誤用」を「善用」へと変えることは並大抵のことではありません。わたしの経験では、「誤用」と指摘されたからだの使い方の方が自分にはノーマルに感じられ、指導される「善用」の方が不自然に思えるし違和感を感じてしまうのです。これまでの習慣に対する執着、思い込みには大変根深いものがあります。先ほどもいいましたが(【坐禅講義35】参考)、誤りを直そうとする意欲そのものが、新たな緊張パターンを生み出してしまい誤用の上塗りをする場合も多いのです。

ですから坐相を向上させていく、深めていくということについてもよほど深く考えておかねばなりません。また指導する側にも慎重な配慮が必要です。よく、坐禅会などで背中を丸めて坐っている人がいると「背筋をしゃんと伸ばせ!」と怒鳴ったり、後ろから警策で背中をグイッと押してまっすぐにさせたりしているのを見かけますが、そういう指導は胸をグッと張り出し腰をひどく反らせる軍隊式の「気をつけ!」の姿勢のような不自然で無理な姿勢を引き起こす結果になっていることが多いようです。それにそういうやり方ではその人のからだが納得してそうしているのではなくて外から強制されたことにいやいや従っているだけですから、まもなくまた元の姿勢に戻ってしまうでしょう。そこには自己の変容という意味での学びが全くありません。あるいは、背筋がまっすぐになって坐っているように見えても、からだの中身は緊張でガチガチになっているという場合もよくあります。からだのほかの部分が犠牲になって背中のまっすぐさを演出しているだけだからです。こころの方もその仕事にかかりっきりになっているので他のことには注意を向ける余裕がありません。

こういうことはしばしば見逃されがちですが、こういう無理な坐り方を続けていると身心の健康を害する元になります。こういう坐り方は外見がいかにそれらしくても正身端坐とは全く違うと言わなければなりません。また坐っている本人も、こういう頑張りを続けていると「自分はこんなに頑張っているんだ!おれは確かに何かをやっている」という手ごたえのようなものを感じがちですから、それを修行と勘違いしてしまうのです。実は正身端坐においてはそういう感じは強為のしるしであって、調身のどこかにおかしいところがあるという兆候だと見なければならないのです。自分としては少しも頑張っている気がしないけど、ちゃんと坐れている、こういう感じが云意のしるしで、いい兆候だと言えます。

わたしは坐禅に出会う前、人間探究の営みとして創始された「野口体操」を野口三千三先生が主宰していた教室に五年ほど通って稽古しました。そこで本当に多くのことをわくわくするような気持ちで学ばせてもらったのですが、なかでも「生卵を立てる」ことから学んだ教訓は強烈でした。わたしが正身端坐ということを考えるときにいつも念頭にあるのは「バランスだけで静かに立っている生卵」なのです。「立っている生卵はいったい何を語りかけてくるのであろうか。……中身は力んでおらず流動体のままである。それは外からでもよくわかる。悠然として余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)、すっきりとおおらかである。つっかい棒や引っ張り綱で無理矢理にしがみついて立っているのではない。……当然立つべき条件を持っているから、立つべくして立っているのである。でっちあげのごまかしでたっているのではない」(『原初生命体としての人間』 岩波書店)「卵は立つのが当然の如く立っている。それでいて別に重さに耐えているという感じではない。むしろやすらかで透明感がある。本当にすっきりしている」(『おもさに貞く』 春秋社)

立っている生卵について野口先生が書いているこういう文章はそのまま正身端坐がそなえるべきクオリティの描写になっているように思うのです。これまで坐禅はどちらかというと、どっしりとした山のような不動性や安定性の側面がよく強調されてきました。力強くたくましい男性的な側面と言ったらいいのでしょうか。そういう要素がなければならないことは確かですが、それだけだということになると坐禅の一面だけしか捉えていないと言わざるを得ません。不動性や安定性と一つになってそこには流動性や躍動性がなければならないのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋
 
 
《藤田一照 一口コメント》
上記の文章を書いた後になって、ロルフィング指導者・身体論者の藤本靖さんから教えていただいた、outside-inとinside-outという二つの異なる意識のベクトルのとらえ方を今はよく借用して使っています。上で書いた「坐禅会などで背中を丸めて坐っている人がいると「背筋をしゃんと伸ばせ!」と怒鳴ったり、後ろから警策で背中をグイッと押してまっすぐにさせたりしている」のは、外から内へ向かって影響を与えようとしていますからoutside-inのアプローチです。これが間違っているというわけではありませんが、これしか知らないというのはいかにもまずいと思うのです。こういうアプローチがふさわしくない営みというのがあって、坐禅はその一つなのではないでしょうか?

ですから、坐禅を行ずるに当たっては、それとは逆のベクトルを持つinside-outというアプローチを学ぶ必要があります。outside-inでは、すでにそこに在る既知の実体に向かって明らかな意図を持って働きかけがなされますが、inside-outでは間(あわい)、あるいはスペースから、未知のものが立ち現われてくるのを注意深く待ち続けています。そして、現れてきたものに素直に従っていきます。何かが向こうからこちらにやってくるのを許すのです。

「仏の方よりおこなはれて、それにしたがひもてゆく」という道元の表現はinside-outのあり方を見事にとらえているということができるでしょう。inside-outの様子を体感として理解していけるようなワークを今いろいろ工夫しているところです。
 
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【坐禅講義35】第ニ講:頭部と胴体


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