【坐禅講義35】第ニ講:頭部と胴体
藤田 一照 藤田 一照
2017/11/03 07:22

【坐禅講義35】第ニ講:頭部と胴体

正身端坐について道元禅師が言っていることをもう一つ見てみましょう。『永平清規 弁道法』の中にある「頭を以って背に差うことなかれ」という一節です。これは先ほど引用した『正法眼蔵 坐禅儀』の「かならず耳と肩と対し、鼻と臍(へそ)と対すべし」と並んで頭部と胴体の正しい関係についての記述として理解できます。これが正しい坐相のもう一つのポイントとして道元禅師によって指摘されていることなんですね。

オーストラリア出身のF・M・アレクサンダー(1869~1955)は日常的行為における間違ったからだの使い方(「誤用」)が身体的・心理的な諸問題と密接に関連していることを見出し、この「誤用」をやめるように指導する技術を開発しました。多くの場合、このからだの「誤用」はもはやその人の習慣になっていて意識されなくなっていますから、自分だけでは簡単に変えることができません。たとえ誤用に気がついたとしてもそれを変えようとするその努力自体が誤用に基づいているからです。アレクサンダー氏は「努力とは自分がすでに知っていることを強化することでしかありません」と言い切っています。その指導の実践体系は現在「アレクサンダー・テクニーク」と呼ばれていますが、実はそこでも頭-首-胴体の正しい関係が最も重視されています。わたしはアメリカに住んでいるときにこのアレクサンダー・テクニークのレッスンを受けました。アレクサンダー教師の指導を通して、自分の坐相のいろいろな誤りに気づくことができましたが、なかでもこの頭-首-胴体の繫がりという問題についてはそれまで、アレクサンダー・テクニークの世界で言われているほどには細かい注意を払っていませんでしたから大いに反省させられました。

わたしたちは脳髄の発達によって非常に重くなった頭を胴体の上に置いています。頭部の重さについては諸説ありますが、大体体重の8%から13%くらい、平均すると成人で5キロから7キロくらいだそうです。これは、1リットルのペットボトル5本~7本分、11ポンドのボーリングの球一個分の重さなんですね。先日坐禅のワークショップで参加者の皆さんに、お米の5キロ袋を試しに持ってもらいましたが、相当に重くて、こんなに重いものを首の上にいつも置いているのかと今更ですが、みなさんたいへん驚いていました。ですから首を介して頭を胴体の上に上手に据えておかないと、それほどにも重い頭が重力に引っ張られてすぐに落ちてしまい、からだ全体のバランスが崩れてしまうので、そうならないために首の周りの筋肉を恒常的に、しかも過度に緊張させてつなぎとめておかなければならなくなります。この首周辺の余計な緊張はそこだけに留まらず、からだの他の部分にも波及して、からだ全体の姿勢や動きに悪影響を与えます。また首には重要な血管や神経が通っているために、そこの圧迫は呼吸や発声、咀嚼、嚥下(えんげ)などの働きやひいては精神的な活動全般に多大の問題を引き起こします。これでは、自分で自分の首を慢性的に絞めているようなものです。首が文字通り、生きていく上でのネック(物事の進行を阻む障害)になってしまうのです。

これに対して、頭-首-胴体が、道元禅師が書いているような正しい関係で繫がっているときには頭がバランスよく胴体の上に乗っているので首の周りの筋肉は余計な、不必要な緊張から解放されています。そういう状態では、からだ本来の調整作用がうまく働いて「首が楽で自由になり、それによって頭は胴体(脊椎)との関係において、上の方に、前の方に向かってバランスを取れる」ようになります。こうして頭が胴体(脊椎)と無理なく繫がってくると、不思議にも力むことなく「背中が長く伸び、左右に広がる」ようになります。体軸が頭と胴体のあいだで折れ曲がらず坐相全体のなかでまっすぐのびのびとした一本のラインにまとまるのです。

くれぐれも気をつけなければいけないのは、そういう状態を作り出そうとして筋肉(外筋)を使って、つまり緊張させてからだを動かすのではないという点です。ただそういう状態になっていることを思うだけ、そしてそういう状態になっていることを感じるだけでいいのです。たとえば無理に首を伸ばそうとするのはこれまでの誤用の延長でしかありません。このように、そこに到る手段や過程をよく吟味しないで、望ましい結果や効果を少しでも早く直接的に得ようと駆り立てられている状態、結果に気がはやっている状態をアレクサンダー・テクニークでは「エンドゲイニング」と呼びます。エンドゲイニングでないような仕方で、つまり首を自由にしようと積極的な努力をするのではなく(強為)、首が楽で自由になる(云為)ためには、頭を後ろと下に押し下げている余計な緊張をやめればいいのです。「正しくないことをやめれば、正しいことは自然に起こる」(F・M・アレクサンダー)のです。

わたしたちの思考は必ず何らかの筋肉の反応となって現われます。思考は筋肉活動なのです。筋肉を意識で動かそうとするのではなく、頭全体がほんのわずか前の方へ、そして上の方へ動き、それに導かれて自分のからだがそれについていくところを思うだけで、あとはからだが面倒をみてくれて動くべきところが動くのに任せるだけでいい。アレクサンダー・テクニークではこう教えています。わたしはあるレッスンで、「手紙を書いてそれをポストに投函したらあとは郵便屋さんがちゃんと宛先まで届けてくれるシステムができているのですから、あなたがわざわざ足を運んでそこまでいこうとしなくてもいいのです」、という喩えを教わりました。アレクサンダー・テクニークについてはわたしはまだほんの初心者なのでこれ以上詳しいことは差し控えますが、わたしにとっては、坐禅の修行に関していろいろ有益な洞察が得られる非常にありがたいリソースの一つですので、今後も学び続けていきたいと思っています。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋
 
 
《藤田一照 一口コメント》
アメリカに住んでいる時、坐禅に来ている人からアレクサンダー・テクニークのことを教えてもらって、実際に二人の先生からレッスンを受けることができたのは大きな収穫になりました。ソマティック(身体論的)なアプローチで坐禅に迫っていくためのリソースが、アメリカにもあるのだということが実感できたからです。これ以降、フェルデンクライス・メソッドやロルフィングといった西洋生まれのボディワークを学ぶことができ、縁と言うべきでしょうか、さらにその延長線上で、ボディマインドセンタリングという非常にユニークなボディワークシステムを作り上げたボニー先生にお会いすることができました。こういう出会いを思い返すと、まさに「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉の通りのことが起きたとしか言いようがありません。

僕は、あるテーマに興味を持つとそれに関連する文献や本をとりあえず集められるだけ手に入れてまとめて箱に入れ、机のそばに置いておく習慣があるのですが、ボディワーク関係ではアレクサンダー・テクニーク関係の本が一番量が多いのです。英語の本もかなりありますが、最近やっと日本でも認知度が上がってきたらしく、日本語の本も増えてきました。最近入手した本の一つにパトリック・J・マクドナルド著『アレクサンダー・テクニーク ある教師の思索』という翻訳本があります。僕は前にThe Alexander Technique As I See It(私の見たアレクサンダー・テクニーク)という原書を借りてコピーしたものを読んだことがありました。著者のマクドナルドは幼少期からテクニークの創始者F・M・アレクサンダーについて学び、その普及に貢献した人です。その人が自分の経験をシェアする形で解説した、アレクサンダー・テクニークについての古典的名著です。それを翻訳出版したのがなんとあの幻冬舎だということに僕は少し驚きました。アレクサンダー・テクニークと幻冬舎というのは、僕にはまず結びつかない組み合わせだったからです。西洋のボディワークの歴史の中でもかなり古い部類に属するアレクサンダー・テクニークに幻冬舎が眼をつけるというのが今の時代なのでしょうか?

この本の中に見つけた一節を紹介してコメントに代えます。「アレクサンダー・テクニークが、禅と等しく、人間の内にあるいまだ解明されていない大いなる能力の扉を開こうとしていることは注目に値する。禅の自己放下とアレクサンダーの『自分のからだを自然が望むままにその作用がはたらくようまかせよ』ということを比べてみよう」
 
 
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