【仏教とわたし3】森田真生さん(独立研究者)
藤田 一照 藤田 一照
2017/10/20 07:28

【仏教とわたし3】森田真生さん(独立研究者)

新シリーズ「仏教とわたし」の投稿です。2017年3月までに配信していた旧メールマガジン「藤田一照『仏道探究ラボ』」のコンテンツ「仏教とわたし」を、新たに形を変えて一ヶ月に一度お届けしていきます。

「仏教とわたし」とは、様々な分野で活動中のゲストをお迎えし、仏教との関係性や、仏教に対する考え、思い等をお伺いした記事です。今回磨塼寺では、以前配信した記事に新たに藤田一照が一口コメントをつけて配信します。

以前読んだ方も、今回から読まれる方も、皆さん新たにお楽しみください。読まれた方は、コメントにてぜひ感想を聞かせてください。

第3回目は、独立研究の森田真生さんです。

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森田真生さん独立研究者

仏教については「わからない」というのがいまのぼくの正直な感想である。仏教に関心がないのではない。むしろどちらかというと、ずっと関心を持ち続けてきた方である。縁のある寺には足繁く通っているし、朝の読経を欠かさず何年も続けていたこともある。にもかかわらず、いざ「仏教とは何だと思いますか?」と聞かれると、ぼくには答えることができない。

ぼくは高校時代「物質」という概念が理解できなかった。それで物理の授業についていけなくなったことがある。水や風にも生命はある。樹々や月にも心はある。そうとしか思えなかったぼくには、生命と心を欠いた物質なる思想を、どうしても受け入れることができなかったのである。受け入れられなかった理由は、仏教と関係があるかもしれないし、ないかもしれない。ただ「万物は素粒子でできている」と考えるよりも「万物に仏がある」という考えの方がはるかに真実らしく思えたことだけはたしかである(いまではこの二
つの考え方が必ずしも互いに矛盾するものではないと思うようになったが)。

ゴータマ・ブッダは一切が「苦(dukkha)」だと言ったそうだ。このdukkhaという言葉には、英訳でしばしばunsatisfactoriness(不満足)という単語が当てられるそうである(dukkhaという言葉の独特のニュアンスについては魚川祐司氏の著書『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)などをぜひご参照ください)。満たされるとはどういうことかが判然としていないような端的な満たされなさ。それは生物にとって常態である。

生きることは、周囲に巻き込まれながら、周囲を巻き込んでいく営みである。こののっぴきならない営為において、「私」と独立した「世界」はない。生きれば周囲が変わる。変わる周囲がまたこちらの生き方を変える。野を歩けば草が倒れる。草が倒れれば道ができる。道ができればまた人が歩く。人が歩けばますます道ができる。「私」から切り離された「道」も、「道」から自由な「私」もない。だから「私が道の上を歩く」のではない。歩く行為が道をつくり、道がまた私をつくる。要するに、持ちつ持たれつである。字義通り「意味不明」の周囲の中に、持ちつ持たれつ巻き込まれていくこと。それが生きるということなのだとしたら、dukkhaは生の常態である。

機械化された自然の中には、dukkhaの入り込む余地はない。「時間」を「瞬間」の集合に解体する手続きは、同時に「自己」と「世界」に裂け目を入れる。そうして考案された「時空」のなかに「物質」が描かれ「精神」が拵えられる。時間が持続を失う代わりに、苦も消える。悪くない取引だと思う人がいたとしてもおかしくない。他方、生成し続ける時間のなかでは、水や風にも生命がある。土にも道にも心が宿る。存在が場所ではなく行為だとしたら、ここまでが私で、ここからが風、ここまでが自分で、あそこからが土。そんなふうに切り離すことはできないのである。巻き込み巻き込まれながら進む時間のなかで、生命と心は、どこかにあるとしたら、どこにでもある。こういう考え方が仏教と関係があるのかないのか、ぼくにはわからない。だが、切り離された「私」と「世界」を持ち出すことなく、持ちつ持たれつの行為溢れる生成的な世界をありのままにわかろうとすると、どうしてもどこかで仏教に突き当たる。ぼくの本棚に仏教の本が溢れているのは、そのためである。

とはいえ、ぼくにはまだまだ仏教がわからない。いつかわかるようになるかどうかも心もとない。2500年ものあいだ人を魅了し続けてきた思想である。願わくはそれをよく学び、やがてはそこから自由になりたいものである。


《藤田一照 一口コメント》

森田真生さんは全国各地で「数学の演奏会」と呼ばれるお話の会やその他の講演を精力的に行っているから、このエッセイを読んだ人は何とかして、是非一度それに参加して、「森田節」の説法(真実=法=ダルマを説くこと)に触れてもらいたいと切に思う。僕は小林秀雄賞を受賞した『数学する身体』(新潮社)を読んで、彼の文体に魅了された一人である。しかし、文章もさることながら、鎌倉で初めて彼のユークリッドやデカルトが登場するナマの話を聞いて、森田節に度肝を抜かれてしまった。決して話し方がうまいというわけではないのだが、彼が伝えようとしている内容の無類の面白さに加えて、右へ左へと動き回りながら、時にはずり落ちたズボンを引っ張り上げて語り続けるその熱量に感動したのだ。この人は数学で人間とは何かを語っている。

幸運にも愛媛県今治の栄福寺で対談をさせてもらったおり、森田さんから「お坊さんたちは悟りを最終のゴールみたいに思っているようですけど、そうじゃなくて、悟りの基礎ぐらいは義務教育レベルでみんなものになっていなきゃ、仏教としては失敗なんじゃないですか。悟りの後を長い人生どう生きるかということを、もっと言わなきゃいけないんじゃないですか」と言われたことは、強く印象に残っている。このエッセイで「まだ仏教がわからない」と書いているが、わからないあいだは仏教に興味を持ち続けてくれるであろうか、当分はわからないままでいてもらいたいものである。数学を演奏するように、僕も仏教を演奏していきたいと思っている。

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森田真生…1985年、東京都生まれ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。現在は京都に拠点を構え、在野で執筆・研究活動を続ける傍ら、全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」など、数学に関するライブ活動を行っている。デビュー作『数学する身体』(新潮社)で第15回小林秀雄賞を受賞。編著に『数学する人生』(新潮社)がある。 

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