【坐禅講義33】第ニ講:外筋と内筋
藤田 一照 藤田 一照
2017/10/20 07:22

【坐禅講義33】第ニ講:外筋と内筋

云為のあり方を最も端的に述べたものとして、道元禅師の『生死』の中の次のような一節があります。「ただわが身をも心をもはなちわすれて仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」。ですから、正身端坐もここで言われているように「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」行じられなければなりません。それには「ちからをいれ、こころをついやす」癖のある意識的自分が不遜にも出しゃばるのではなく、意識にとっては「仏のかた」にあたる「からだという自然」にお出まし願わなければなりません。

たとえば、坐禅では強為で「背筋を伸ばす」のではなく、云為で「背筋が伸びる」のでなければならないのです。こうやって日本語で言うとほんのちょっとした違いのように見えますが、実際にやっている当人の感覚からすれば両者のあいだには雲泥の差があります。詳しい議論はここでは避けますが、「背筋を伸ばす」場合には「外筋」と呼ばれる「〈為す doing 〉ための筋肉(随意筋)」が意志的に使われるのに対し(目的運動システムの活動)、「背骨が伸びる」ときには「内筋」と呼ばれる「〈在る being 〉ための筋肉(不随意筋)」が自律的に働いています(支持運動システムの活動)(ジェレミー・チャンス『ひとりでできるアレクサンダー・テクニーク』誠信書房刊 参照)。

われわれは多くの場合、外筋による無駄で余計な緊張のせいで内筋の本来的働きが邪魔され抑圧されている状態に陥っています。だから外筋の余計な緊張を「やめる」、「ほどく」ことによって、われわれのからだがもともと備えている内筋の働きが再活性化され、十分に発現されるようになることが必要です。本来内筋が果たすべき役割を、ことあるごとに外筋が出しゃばってやってしまおうとするところ(外筋と内筋の不調和・葛藤)にわれわれ人間の抱える根本的な問題があるのですが、それは坐禅(云為=内筋的)が習禅(強為=外筋的)ではないということと密接に結びついているように思われます。それはさておき、「人為的にそう為すのではなく、自然にそう成るように」という原則が活かされなければならないのは、今言った背筋だけではなく、頭、眼、手、腕、胴体、脚など坐相のあらゆる部位、呼吸、さらにこころのあり方全て、つまり調身、調息、調心全てについても言われなければならないのです。自らが「調える」のではなく自ずから「調う」ということです。 

坐禅においては何か特別な呼吸法を意識的に実施して息をコントロールするのではなく、正身端坐している身体の生命活動としての自然な呼吸そのままのあり方に全て任せるだけです。道元禅師は「鼻息微通」とか「出息入息 非長非短」と言うのみで「しかじかの方法で呼吸をせよ」とは一言も言わないのです。言い過ぎるとわれわれがそれを指示として受けとって意図的に「やってしまう」からです。まさに「言わぬが花」なのです。

この「外筋的-内筋的」という考え方はもともとはからだに関してのものですが、わたしはこころについてもこの考え方を使えるのではないかと思っています。つまり普通にわれわれがあれこれと思案をめぐらしたり、ああだこうだと考えるのは「外筋的なこころの働き」(日常語で「アタマを使う」と言います)であり、それに対してそのような個々の思念の起滅自体を基底で支え、いわゆる「直観」や「気づき」、「マインドフルネス」を可能にしている「内筋的なこころの働き」と言えるものがあるのではないでしょうか。だとすると、ここでもやはり坐禅は「外筋的なこころの働き」の過剰な活動を鎮め、それによって邪魔され抑圧されていた「内筋的なこころの働き」を活性化し発現させることだという言い方ができるでしょう。だから坐禅のなかに様々な瞑想の技法、たとえば四念処法、日想観、阿字観などを外から持ち込んで「内職」をしてはならないのです。

 このような技法を実践するときには、こころは必然的に能動的・意図的なものになり、「外筋的働き」主導のdoingモードになってしまうからです。それに対して、坐禅ではこころはどこであれいかなる特定の場所にも集中(凝固)しておらず、身体の内外に均等にやわらかく淡く広がっていて、様々な感覚情報(念の起滅も含む)を淡々とただ静かに受信している、どのような情報を受けてもそれに対してリアクションを起こしたりコントロールしようとする能動的な営みはさしひかえられている・・・これが坐禅におけるこころの「内筋的働き」主導のbeingモードのありようです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋
 
 
《藤田一照 一口コメント》
「ソマティック禅シリーズ」と題して、ソマティックワークの指導者たちとコラボする形で、坐禅とソマティックワークがクロスする領域をワークショップを通して体験的に深め合うという活動をやっています。先日、五回目のワークショップを田中千佐子さんとやりました。テーマは「坐禅の眼」でした。田中さんは、アレクサンダー・テクニークと視力改善法であるベイツ・メソッドの先生で、このテーマでコラボをするには最適の方です。5時間にわたって僕と田中さんが掛け合いで話したり、いろいろなワークを提案して、充実した時間を過ごしました。坐禅の眼と言うと「半眼」という表現がよく使われますが、あれは誤解の元だということがよくわかりました。半眼という特別な目つきがあるのではなく、坐禅する当人としては、眼をリラックッスさせ、頭部の動きと連動して自由に動けるようにしておけば、首が自由で、頭が上へ、前へと動いていくと、自然に視線が少し落ちて、それを外から見たら、眼を半分くらい閉じているように見えるだけなのです。本人普通に眼を開けている感じなのですが、それがいわゆる半眼に見えるだけなのです。ですから、一人称の立場からすれば、半眼にするという言い方は全く当てはまらず、第三人称的立場から勝手にそれが半眼だと言われているにすぎません。これが、坐禅中の眼についての「するdoing」と「あるbeing」の違いです。こういうことが、調身、調息、調心のすべてについてあてはまるのです。

 
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【坐禅講義32】第ニ講:強為と云為

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