(前回の講義)

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2019年もいよいよおしせまってきましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

今回の講読は「作仏を図ること莫れ。豈に坐臥に拘わらんや。」という一節について話していきましょう。

まず、文字通りにさらっと現代語訳してみると「仏になろうというようなモノ欲しい根性を持ってはいけない。ましてや、坐るとか横になるとかの日常生活の動作と坐禅を同じだと考えてはいけない」ということになります。

こう言われると、仏になるためにこそ坐禅するのではないのかと反論したくなりますが、道元さんの立場では、坐禅していることそのものがすでに仏になっている状態なので、坐禅はただ坐禅していればそれでいいのであって、さらに仏になろうというようなはからいは余分であり、余計なことになってしまうのです。

坐禅は坐仏なのですから、作仏の必要はないというロジックがそこにはあります。

『正法眼蔵 坐禅箴』には「作仏をもとめざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆえに」という一節があります。

坐禅は外から見れば坐っている動作をしているように見えますから、行住坐臥という日常の一連の動作と並べて考えがちですが、澤木老師が「坐禅は幽邃である」と言ったように、表面の姿ではなく、その中で起きている出来事、内容に注目してその意味を考えるべきです。

「豈に坐臥に拘らんや」というのは目に見えない坐禅という営みの宗教的意義に目をつけるべきことを示唆した言葉だと思います。

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