【坐禅講義32】第ニ講:強為と云為
藤田 一照 藤田 一照
2017/10/13 07:23

【坐禅講義32】第ニ講:強為と云為

佐々木奘堂さんとの対談のなか赤ちゃんがお坐りしている写真のことを紹介しました。あの赤ちゃんもやはりそのようなからだのなかにある姿勢の自動調整メカニズムの働きが自発的に発現することで、あのように伸びやかで楽な坐り方ができているのです。意識主導で、自分の外側にある理想の坐禅のかたちに自分を他律的に当てはめようとして、からだを緊張させ固めて無理矢理に作った姿勢ではなく内側から自律的に柔らかく自然に生成してきた姿勢です。だから、そこには作為、つまり背中をまっすぐに立てようとか、腰を入れようとか、からだをじっとさせていなくちゃとか、いい姿勢で坐っているところを見せてほめてもらおうといった人間的な力みやわざとらしい作りごとが全くないのです。古武術家の岩城象水氏は他律的に外から作られた姿勢を形、自律的に内側から生成した姿勢を象りと呼んで次のように区別しています。「象りには柔らかさとしなやかさがあるが、形は堅く勢いもなく法もない、人形の如く置物である」(『天心象水流拳法 柔の道』)。この言い方を借りれば、坐禅は形ではなく象りでなければならないのです。武道や芸道における本来の意味での「型」とは、形ではなく象りなのです。

坐禅に取り組む場合に起きてくるいろいろの困難というのは、坐禅をこの意味での形として意識主導でやろうとするからです。そこではわたし(自我意識であり思考の産物)という表層意識、さきほどの頼藤和寛氏の喩えで言えば富士山の噴火口付近くらいのサイズでしかないものが、不遜にも自分を生み出している母胎である、はるかに大きく広い深層意識や脳を含む身体に向かって命令を下し、姿勢をこうしろ、息はこうしろ、こころはこうしろというふうに一方的に従わせようとしています。「(指導者がそう言っているから、あるいは本にそう書いているから、といった権威を笠に着て)こういうふうにするのが坐禅なんだから、黙って俺の言う通りにしろ。その指示に従わないのは悪いことだ、いけないことだ」というわけです。

こういうやり方では一時的にうまくいくかもしれませんが、遅かれ早かれ「足が痛くて耐えられません」、「からだがむずむずしてじっと坐っていられません」、「雑念が次から次に浮かんできてどうしようもありません」、「坐ったとたんに眠気が襲ってきて起きていられません」、「わたしは坐禅には向いてません」……ということになるのは目に見えています。

思考の産物でしかないちっぽけな「わたし」が、それよりもはるかに広大深淵な深層意識やからだを相手にして、それからの合意や納得、協力をとりつけることもしないで、遮二無二コントロールしようとしているのですから、うまくいくはずがないのです。かれらからの抵抗や反抗、異議申し立てが様々な仕方で噴出してくるのは至極当然です。意志の力でそれに打ち勝とうとしてもしょせん勝ち目はありません。不自然な無理を空しく積み重ねるだけになって、からだやこころをおかしくしたり、傷めたりするのが落ちです。血気にまかせた無茶苦茶な坐禅修行はしばしば禅病を引き起こすと古来より誡められている所以です。

道元禅師はこのような、何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行なうのを強為と呼び、それに対して思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行いのことを云為と呼んで対比させています。坐禅はしばしば強為の積み重ねのように思われていますが、それは全くの誤解です。そうではなくて云為として行じられるべきものなのです。 
藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋
 
 
《藤田一照 一口コメント》
『現代坐禅講義』の写真の中で、端正に坐っている赤ちゃん(撮影当時生後11か月)が、4歳くらいになったころ、僕の坐禅会にお母さんと一緒にやって来てくれたことがありました。僕は、「本の中にあなたが赤ちゃんだったころの写真を使わせてもらいました、ありがとうね。」とお礼を言い、「ねえ、みんなにあなたが、こんなふうに坐っているところ見せてくれる?」と頼んでみました。「うん、いいよ」といって坐ってくれたのですが、さらに僕を見て「これでいい?」と僕に尋ねました。それを聞いて「しまった!」と思いました。これでは、あの写真のような造作の無い、人に見せるためではない、自発的な坐りは無理だったなと気がついたからです。

写真の時の彼は、必要性に促されて自発的に坐っていただけなのですが、この時の彼はただ坐るのではなく、僕が頼んだから坐ったのですし、なによりも人に見せるために坐ったのです。さらには、「これでいい?」という彼のなにげない問いが如実に示しているように、「こう坐るべきである」というような「よしあし」の基準があることをかれはすでに意識しているのです。赤ちゃんではなく、もう僕らの仲間入りを果たしていたのです。たいていの場合、僕らも坐禅するとき、「これでいい?」という意識でいるのではないですか?赤ん坊の時は、「いい・わるい」を超えて、ただ端的に坐れていたのに、いつしかそれができなくなってしまうのです。もう4歳の時にはそうなっているということです。

どうやらわれわれは、ここを通って、もう一回、ここに帰ってくるために稽古をしなくてはならないようです。それは、どうしようもなく「ものごころ」がついてしまった大人から、もう一回無邪気な〈子ども〉に帰る稽古です。これは退化ではなく、成熟と言うべきでしょう。それはたやすいと言えばたやすいけど、難しいと言ったらこれほど難しいことはない、というような作業だと思います。それに気迫を持って取り組もうというのが修行かな?

 
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