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【坐禅講義8】序講: おんいのちに南無する
藤田 一照 藤田 一照
2017/04/28 09:04

【坐禅講義8】序講: おんいのちに南無する

さて、ここまで自己という言葉を何回か使いましたが、これは普段われわれが「自分、自分」と思っている自分のことでありません。そういう「自分」は実はアタマが分泌した「思い」の産物でしかありません。仏教ではそういう思いでしかない自分のことを吾我と言います。そういう思いの根底にあって、思いが全く知ることのできないところから思いそのものを浮かばせている、生み出している、思い以上の、自己を自己ともなんとも思っていない、自己をわすれた自己こそが本当の自己なのです。

それはわれわれが夜ぐっすり眠っているときにも息をさせ心臓を動かさせているような生命的自己です。それはからだやこころを生み出し、働かせているいのちの地盤ですが、それ自体はからだでもなくこころでもありません。そのどちらでもありながらそれを超えているとしかい言いようのない何かです。道元禅師はそれを「おんいのち」と呼びました(「おん」は敬意を示す接頭語)。われわれは何がどう起きようとこの本来の自己、「おんいのち」の地盤から落ちこぼれることは決してありませんし、それをどこか自己の外側にあらためて求める必要もありません。われわれがなすべきことは安心してそこに落ち着き、くつろぐことだけ、そこに向かってどこまでも深まっていくだけです。このようなおんいのちに関しては、それより他にわれわれは何もしようがないのです。 
おんいのちが最も生き生きと働き出すのは、われわれが余計なことを全てをやめてとことんくつろいだときです。それが「南無する」ということです。南無というのはサンスクリット語namas、パーリ語のnamoの中国語への音写で、「帰命頂礼する(全身心をあげて帰依する)」という意味です。自分の身心をまるごと挙げておんいのちに南無している姿、それが坐禅なのです。しかしここでしつこいようですが大事なことなのでさらに言いますが、その身心もやはりおんいのちに他ならないのですから、坐禅はおんいのちがおんいのちに南無している(拝んでいる)、おんいのちがおんいのちに安らっている姿であるということになります。

わたしが野口体操をならった野口三千三先生はよく「信ずるとは、まけて(負けて)、まいって(参って)、まかせて(任せて)、まつ(待つ)ことである」とおっしゃっていました。坐禅というのはまさにおんいのちを信じて「負けて参って任せて待っ」ていることだと言えるでしょう。ですからおんいのちに何かをおねだりしながら坐禅しているようでは南無していることにはなりません。それはあくまでもおねだりでしかありません。

わたしがパスカルに向かって自信を持って紹介したいと思っている坐禅は、今言ったような意味での本来の自己が本来の自己にどこまでも深まっていく、おんいのちがおんいのちへと澄み浄くなっていくような坐禅なのです。そういう坐禅ならば、パスカルが見出した人間のあらゆる不幸の原因が潜んでいる存在の深みにまで必ず届くはずだと思っているからです。われわれが本当にくつろぐとしたら、安らうとしたらこの方向に向かうしかないのではないでしょうか。

吾我が自分はおんいのちから浮かんできた思いでしかないことを知って、自分の生命地盤、いわば「わが家」であるおんいのちに向かって深まっていこう、帰っていこうとしている姿が坐禅です。これはまさに吾我にとってみれば帰家穏坐です。その深まっていく様子を吾我の方から見れば「休息万事 放下諸縁 一切不為」、つまり徹底的なくつろぎです。吾我はいわば「開店休業状態」(ありながらありつぶれ)です。その同じ様子をおんいのちの方から見れば、おんいのちの自由自在な働きが坐禅という具体的な場でいきいきと発揮され躍動しています。おんいのち、つまり仏がそこに降臨して坐禅というかたちをとって坐っていることになります。吾我から見れば百パーセント坐禅ですが仏から見れば百パーセント仏坐。坐禅と仏坐、二つが別々にあるのでもなく、坐禅がぼちぼち仏坐になっていくのでもなく、ただ一つの事実があるだけです。坐禅が仏坐であり、仏坐が坐禅なのです。坐禅は吾我の側にとってはどこまでも修行ですが、同時に仏の側にとっては、仏、つまりおんいのちの働きを実際に証明していることになっているのです。修行と証明、これも二つが対立して別個にあるのでもないし、修行が実って証明が成果となるのでもなく、ただ一つの事実があるだけなのです。だから修行は証明に出会うことがないし、出会わなくてもいいのです。修行がそのまま証明になっているからです。われわれはそのような修行をこそ、間違いのないように行じていかなくてはなりません。
藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋

《藤田一照 一口コメント》
アメリカにいるとき、The less we do, the deeper we see.という英語表現を、アレクサンダー・テクニークの先生から教わりました。「自分がやることが少なければ少ないほど、より深いところが見えてくる」とでも訳せるでしょうか。もっと深いところを見ようとして、あれやこれやとやることを増やしてしまうと、皮肉なことに、逆にますます見えなくなるということです。がんばればがんばるほど浅いところしか見えなくなるというのは、思い当たる節があるのではなりませんか?でも、われわれにとっては、こちらがやることを減らしていくことで、はじめて見えてくるものがあるというのは、なかなか受け入れがたいことです。もっと見たいとついがんばってしまうのが、われわれの習性だからです。自分がもっと見ようとして手を出すのではなく、自分の運び出しを減らしていくことで、向こうの方からこちらに姿を現してくるのです。安全のために銃を持ってジャングルに入ってゴリラの生態を観察しようとしていた人たちには決して見ることのできなかった、ゴリラの親密な暮らしぶりを報告した人類学者は、その秘訣についてこう語ったそうです。「わたしはあなたたちのように銃を持って、ゴリラに近づかなかった」と。緊張という銃を持っている限り見えない世界が、それを手放すことによって初めて見えてくるということが確かにあるのです。 

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