【坐禅講義31】第ニ講:意識を超える般若の智慧
藤田 一照 藤田 一照
2017/10/06 07:22

【坐禅講義31】第ニ講:意識を超える般若の智慧

からだの各部が同時に連動しながら、からだのまるごと全体で、内側から花が開くようにして坐相ができあがっていく(ホバーマン・スフィアがイガイガ状態からフワーッと球体に広がるみたいに)、しかもそこで調息と調心が同時に進行しているような、全一的な調身はどのようにして可能になるのでしょうか?

これを意識的な努力やはからいでやろうとしたのではとうていおぼつきません。意識にはそれだけ多岐にわたる複雑な課題を一挙に遂行する能力が与えられていないからです。意識は限定された対象を扱うのは得意ですが、こういうことには向いていないのです。意識を使うと必ずどこか局所に捉われることになり、全一性が損なわれてしまいます。それなのに意識の分限を超えてなんでも意識だけで全てこなしてしまおうとするところに、坐禅のいろいろな問題が生じてくるのです。それは「自ら」と「自ずから」をどう塩梅するかという問題とも言えます。全一的な調身が意識的なコントロールだけではできないとなると、わたしたちにはもうどうすることもできないのでしょうか?

いえ、そんなことはありません。意識でできないことをわたしたちは日常的にやすやすとやっているのです。消化吸収、排泄、呼吸、血液循環、免疫、重力場での姿勢調節、運動の制御などわたしたちが生きていることを支えている様々な働きは、そのほとんどの部分が意識的コントロールではないかたちで維持・運営されています。思いの発生それ自体は意識によるものでないことも忘れてはなりません。実は、生きているという地盤から見直せば、意識は自分がそう思い込んでいるような主人などといえるものではなく、生きていることの副産物の一つくらいに考えておいた方がいいものなのです。精神科医の頼藤和寛氏によると、われわれがそれが全てだと思い込んでいる意識の領域など富士山の山頂の噴火口付近くらいのサイズでしかなく、脳の活動から立ち現われてくる作用を全部ひっくるめても雪冠部くらい、さらに脳がその一部になっている身体やそれと交流している環境や微妙なかたちで影響を与え合っているさらに広い地球や宇宙を考えていけばその裾野はどんどんひろがっていって無限の果てまで伸びていきます。わたしたちは、自分の内部だけで自分を支え成り立たせているのではなく、逆に意識的な自分というのは全世界、全宇宙が寄ってたかって担ぎ上げている「御神輿」みたいなものだということになります(『自我の狂宴』創元社刊)。

正身端坐の坐禅を行じるにあたってはこういう意識的な自分に対する見方のラディカルな転換がなされなければならないのです。そこから全く異なった調身へのアプローチが生まれてきます。それは自分が調えようとして行なう「自ら」の調身ではなく、自分を超えたところから自発的に出てくる自然な働きに任せる「自ずから」の調身です。ですから調は「調える」という他動詞ではなく「調う」という自動詞の意味になりますし、調の主体(エージェント)は「自分」ではなく「自然」ということになります。しかし、このような調身においても、意識が全く用無しになるわけではありません。コントロールという余計な手出しはしませんが、坐禅が今どうなっているかをはっきりと覚めて、注意深く見守っています。意識を消してしまうのではなく、気づくべきことに気づいているという大切な仕事はきちんと果たしているのです。

わたしは二年ほど前から、自分の家の庭にある二本の木のあいだに綱を張ってその上を歩く練習をしています。友人から教えられて始めたスラックラインという、簡単に言えば綱渡りです。揺れ続けるラインの上を渡っているときに、意識でいちいち姿勢をコントロールしていたのでは、バランスの崩れについていけずすぐに落ちてしまいます。なるべくからだをリラックスさせ、身体を立て直しバランスを取り戻すような動きが自発的に出てくるのに任せていると、本当に勝手にからだが動いて落ちないで歩けるのです。あらかじめこういう姿勢がいいということは決められず、どんな動きが出てくるかはそのときになってみないとわかりません。綱の上で刻々に次々と姿勢が変わり続けますので、姿勢というのが実は固定的なものではなく動き、運動だということがよくわかります。ここではいい姿勢というのはすぐ別な姿勢にさっと変わることができる姿勢なのです。もちろん意識がボーっとしていたら駄目で、あくまでもはっきり覚めて自分のからだの状態に耳を澄ませていなくてはなりません。いろいろ学ぶことの多い遊びです。

この綱渡りの例でもわかるように、われわれのからだの中には重力との関係の中で自然にバランスをとろうとする自然な働きがあって、それを意識的にコントロールしようとしたりしなければ、外から枠をはめるような邪魔や妨害をしなければ、ちゃんとバランスの取れた姿勢に行き着かせてくれるようになっているのです。からだの持つこういう精妙な働きをこそ「般若(サンスクリット語のプラジュニャー パーリ語のパンニャー)」と言うべきではないでしょうか。意識的な自分が修行の結果として獲得できるようなちょっとした智慧など比較にならないくらい高いレベルの智慧だからです。むしろ般若としての自然の働きを乱さないことがわれわれの智慧でなければならないと思います。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
般若とよばれる仏の智慧は、坐禅修行の結果としていつか得られる、今ここにはまだないものではなく、今ここで行っている坐禅のなかにすでに十全に働いているのだということは、坐禅をするうえで忘れてはいけない大事なポイントです。遠いところに目標として置くのと、今ここで発揮されているものとして受け取るのとでは、全く違う態度だからです。大乗仏教では、「無得」とか「無所得」という言葉を使って、何かを得るということがないと説いています。これは僕の理解するところでは、意識の対象として得るということではないという意味だと思います。凡夫にとっては、自分の意識できることがすべてですから、般若も当然自分が得ることができるものとして想定していますが、般若は、そういう意識の対象になるものではないのです。眼は眼を見ることができませんが、ものが見えていることが眼の働きを証しているように、坐禅できていることがとりもなおさず般若の働きを示しているわけです。それを、この目で見よう、この手につかもうと欲張ると、かえってそれから遠ざかってしまうことになります。残念ながらそっちの方向にはないからです。求め方が間違っている以上、見つかる可能性はありません。

般若は得るのではなく、承当(じょうとう)することができるだけです。承当というのは「①会得すること、領得すること。合点すること、首肯すること。②引き受けて、責任を持って担当すること。」です(『禅学大辞典』による)。般若に支えられていることを会得し、それを引き受けてフルに表現するということになるでしょうか。道元は「行取(ぎょうしゅ)」とも言います。行によってそこに実現させるということでしょう。こういう深い見方は、道元によってはっきり自覚されていたと思います。

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【坐禅講義30】第ニ講:調身・調息・調心の全一性

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