【坐禅講義30】第ニ講:調身・調息・調心の全一性
藤田 一照 藤田 一照
2017/09/28 15:03

【坐禅講義30】第ニ講:調身・調息・調心の全一性

これまでのところは調身、つまり坐相における全一性について話してきましたが、実はこれでは中途半端だったのです。調身を調息や調心と切り離して論じてしまったからです。厳密に言えば、調身を行なうためには息やこころの状態に触れないわけにはいかないのです。坐相が全一的なものとして成り立つためには調身が調息、調心と一緒に進行していかなければならないのです。本当の意味での坐禅の全一性は身-息-心の全一性でなければなりません。

ということはよく行なわれているように、まず調身、それができたら調息、そして最後に調心というように順番に「調」をこなしていくやり方は、調身を行なうのにからだの個々の部分をばらばらに扱いながら、それらを寄せ集めて坐禅のかたちにしていくやり方と同様に、全一的坐禅としてはまずいことになります。ですから、道元禅師が『永平廣録』のなかで説いている「衲子の坐禅は直に須らく端身正坐を先と為すべし。然る後に調息致心す」ということも調身→調息→調心という順序でやりなさいというふうに理解すべきではないのです。この文は「われわれが行じる坐禅では正身端坐が全てである。正身端坐すればそれによって息やこころが自然に調うのである」と理解しなければなりません。正身端坐、つまり調身がそのまま調息であり調心なのです。調身のなかに調息も調心も含まれてしまっている、あるいは調身によって調息し調心する、とでも言えるでしょうか、ここに打坐と言われる坐禅の特徴がよく現われています。

『普勧坐禅儀』には「鼻の息が微かに通じている」という息に関するたいへん簡潔な記述があります。息に関しては「鼻・息・微・通」たったこの四文字しか書いていないのです。しかしこの四文字には実践上大変深い意味合いが含まれているので、われわれとしてはこれを暗号のように解読し、実際の坐禅を通して参究していかなければなりません。『永平清規 弁道法』や『永平廣録』のなかにある道元禅師が坐禅中の息に関して述べているところを参考にすると、坐禅中の息は「鼻を通して静かに入ってきた空気がゆっくりと下腹部の底に届いてからだの中を満たし、またそこからゆっくりと上にのぼって鼻から出ていくような深い息が、全く作為なしに自然に起きているような呼吸で、息が荒々しくなって声がしたり、あえいだり、息苦しさを感じたりすることがない。隠れ行くように微かな息が滞りなく全身にわたって息づいている」ということになります。  

意識的にそういう息をしようと「する」のではなく、そういう呼吸を自ら作ろうとするのでもなく、調身の努力によって結果的にこういう息に自ずから「成る」、それが坐禅の調息です。調身によって調息するとはそういうことです。そのためには先ほどの内界受容器を働かせて息の様子を刻々に感受できていなければなりません。それも実は調身の一部なのです。息が通りにくいところはどこか、息の流れが感じられなくなる場所はないか、一回一回生まれてくる息が自分をどのように表現しているかをありのままに鋭敏に全身で感じているのです。それが自ずと調身の動きになっていきます。息に教えてもらいながら調身が進み、正身端坐が深まっていきます。するとますます息も調ってくる、それがまたさらに調身を導き……という具合にどんどん姿勢と息の助けあいが進んでいきます。

坐禅中に現われる不快感や不安感、昏沈(こんじん・こころが沈んで活気がなくなり働かなくなった状態)や散乱(こころがいろいろの物事に引き回されて少しも静まらない状態)などの心理上の諸々の問題も、こころそのものを使って解消するのではなく、調身によって自然に解消させるのが打坐における調心のやり方です。正身端坐の姿勢の大きな特徴の一つは、それが右にも左にも前にも後ろにも、どの方向にも偏っていない、傾いていない、中立の姿勢、完璧にニュートラルな姿勢だということです。それはシンボリックに言えば、前後左右のどこかの方向、ここではないどこか別なところ、今ではないいつか別な時間へ向かって移動しようとしている姿勢ではないわけです。どこか、いつかへ行こうという思いを持ったとたん、必ず姿勢はそれに応じて前か後ろか右か左かどちらかの側に偏ってしまう、傾いてしまうのです。こころは姿勢というかたちをとり、姿勢はこころをそのまま表すからです。このニュートラルな坐禅の姿勢はどこにも移動しようとしていない、何も追いかけようともしていないし、何かから逃げようともしていない、今ここに安祥として存在できているこころの「具現化」ということができるでしょう。あるいはそういうこころが「受肉」したものという表現でもいいかも知れません。

またわれわれはいつも全てのものを地球の中心へ向かって引っ張っている重力の影響下にあります。ですからあの坐禅の姿勢を保つには意識がはっきり覚醒していなければ必ずどちら側かへ倒れてしまいます。つまりうとうとしていたり、居眠りしていたらあの姿勢を保つことができないのです。

言い換えると、坐禅の姿勢では考えごとを追いかけることができないし、居眠りすることができないということです。考えというのは必ず今ここには存在していない未来か過去のことについての考えです。だから考えごとをしているときには坐禅の姿勢のどこかが必ず凝っているし、居眠りしているときには必ず気が抜けた姿勢になっています。考え事も居眠りもできない正身端坐を努力するということは、こころのなかの出来事に対する捉われや眠気を自然に、ということは、本人にはそういうつもりもなく、結果として乗り越えていることになるのです。浮かんでくる様々な思いや湧いてくる眠気を敵に回して、それを相手取って戦うのではなく、坐禅する当人としてはただ(只管に)調身に努めるだけでいいのです。それが同時に調心になっているからです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
調身、調息、調心をバラバラにやるのではなく、坐るという単純な営みの中で一挙に同時にやるという発想の転換は僕には大きな意味を持っていました。そのことで、坐禅の眺めがガラッと変わってしまいました。三つの調をそれぞれバラバラにやっている限り、意識が坐禅を主導せざるを得ません。本来バラバラではないものを、わざわざバラバラにしてしまうのが、意識の仕事だからです。でも、表層の意識主導ではなく、もっと基底的な身心の自己調整機能に任せておくと、三つが一つのことの三側面として、自ずからできてしまうのです。こういう方向性の転換は、もちろん、そう思ったからと言ってすぐにできた訳ではありません。それまでに身につけた癖はなかなか取れるようなものではありませんので、気がつくとやっぱり意識的なコントロールでやっている自分がそこにいました。でも、それまでとは全く違うアプローチがある!という洞察は、間違いなく新しい門をひらいてくれたという確かな手応えがありました。あとは、その門を入って、ゆっくりでもいいからその奥へ向かって好奇心を維持して歩いて行くだけです。

こういう新しい視点が生まれると、不思議なことにそれをサポートしてくれるような人や情報や出来事が次々と向こうからやって来てくれるようになりました。

(前の記事)
【坐禅講義29】第ニ講:調身―坐蒲の上の統一感

正会員になると
投稿にコメントすることや、禅コミュニティに参加することができます。
藤田一照への質問および
正会員向け坐禅会に参加することができます。