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 [序講7] 自己の正体としての坐禅
藤田 一照 藤田 一照
2017/04/21 07:00

[序講7] 自己の正体としての坐禅

禅という行があらゆる人にぜひとも勧められなければならないのは、坐禅が他ならぬ「自己の正体」(『正法眼蔵随聞記』)だからです。そこには「この世で起こる全ての問題の原因はわれわれが自己の正体を見失って右往左往しているところにある」という洞察があります。自己の正体を見失っているからこそ、安心してくつろいでいることができずに、自己の幻影を追いかけてさまよい歩いてしまうのです。この禅の洞察はパスカルの洞察にまっすぐ繫がり、しかもパスカルの人間診断に対して具体的で根本的な治療法までも提供してくれています。それこそが坐禅だったのです。

坐禅は、自己の正体を本尊とし自己の正体を生き生きと働かせて生きるという、文字通り人生の「姿勢」です。それはどう生きるかという自己の人生態度の決定であり、一生の坐り(落ち着きどころ)です。そういうところから見直してみると、何か特殊な心理状態を作り出したり、煩悩や妄想を一時的に片寄せておいたり、個人的な力量や技量をつけたりする――そのための方法であったり手段であるという、世間一般に流布している坐禅についての理解は全く的外れだということに気がつきます。これでは、せせこましくこざかしい自分のあざとい願望、希望、欲求を実現するための個人的営みとして坐禅をすることになります。それをいくら一生懸命にやっても、あいかわらず流転輪廻の中の泡立ち、つまり「もがき」や「あがき」でしかありません。坐禅の実際のやり方についても、そういう間違った理解をそっくりそのまま反映して、自分のアテや見込みを坐禅のなかに持ち込んで、子供がおもちゃを欲しがるような態度(「お母さんの言う通りするから、それと引き換えにお菓子をちょうだい!」)で坐ったり、なんとか所定の目的を遂げようとがむしゃらで一方的な要求をからだやこころに強制するようにして坐ったり……という具合に、自己が自己に落ち着く、現在安住の「安楽の法門」であるべき坐禅には全く相応しない、したがってとうてい坐禅に命中しないようなお粗末で的外れな坐り方をしている場合が多いのです。でも、それは坐禅がお粗末なわけではなく、それをやっている自分がお粗末なだけなのです。

「ああなりたい、こうなりたい、あれがほしい、これはきらい……」といった人間の欲求や思惑が先導しているような坐禅では、パスカルの言う気晴らしとその質において大同小異というしかありません。ですから、とうていかれを納得させられるようなレベルに達しているとは言えません。かれのような、人間の気晴らしを見やぶる眼の肥えた人ならば、こういう人間臭のただよう、人間という生命の癖、人間の業に甘え妥協したような坐禅には眼もくれないでしょう。
 
そんな眼力を持つパスカルが関心を抱き、ぜひとも学びたいと思うような坐禅は、極端な言い方かもしれませんが、人間の跡形が一切残っていない、人間が尽き果てたところで行なわれている坐禅でなければなりません。「人間が尽き果てたところ」にしかくつろぎはおとずれないのです。道元はそういう坐禅のことを「仏行」と言いました。つまり人間=凡夫ではなく、仏が行じている坐禅とよんでいるのです。そんな仏行としての坐禅を、われわれのように頭のてっぺんから足の先まで凡夫であるような者が果たして行ずることができるのでしょうか?そんな道が開かれているのでしょうか? どちらの問いにも、道元禅師は「そうだわれわれにも可能である。釈尊や達磨を見よ。かれらを見習ってわれわれもそういう坐禅をこそ行じていかなければならないのだ」と高らかに断言しています。坐禅の素材はどこまでもわれわれ凡夫のからだとこころなのですが、それを用いてなされている坐禅は立派に仏なのです。ここに坐禅の素晴らしさも不思議さもあるのですが、それがなかなかわれわれにはそう受けとれません。このあたりの問題は坐禅を理解する上でも、また実践する上でもとても大切なところなので、今後の講義でもいろいろなかたちで話すことになると思います。
藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


〔藤田一照 一口コメント〕
仏教ではわれわれ人間の状態を「自己の正体を見失っている状態」と捉えています。現代の日本語でも「正体なく眠る」とか「正体なく酔う」という表現が使われますが、仏の眼から見れば、ほとんどの人は普通に生きていても、多かれ少なかれ「正体なく生きている」ということになるのです。それが凡夫ということです。「人間的思い」という度の強い酒を飲みすぎてベロンベロンに酔っ払い、「もうそれくらいにしておきなさい」と言われても、「何を言っているんだ。俺はまだ、全然酔っちゃいないぞ!」と「正体をなくして」ふらふらしながら言い返している酔っ払いのようなもの。ひどい場合は、二日酔いの症状のように、頭痛や吐き気に苦しめられている人もいるかもしれませんし、急性あるいは慢性アルコール中毒で命を落としたり人生を台無しにするように、思いの飲みすぎがそういう結果を引き起こしている例も多々見かけます。人間のいろいろな問題は実は自己の正体を見失っているところから派生しているのではないかという眼で、自分の周りのごたごたや世界の混乱を見直してみたらどうでしょうか?


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