【対談】稲葉俊郎✕藤田一照②|新しい価値観の創出・問題解決〜ビジネスにおける仏教の可能性〜
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2017/09/29 07:28

【対談】稲葉俊郎✕藤田一照②|新しい価値観の創出・問題解決〜ビジネスにおける仏教の可能性〜

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1. 新しい価値観を生み出す。ビジネスにおける仏教の可能性

稲葉 坐禅の体勢は、どういう歴史のなかであの型に落ち着いてきたんですか?例えば、赤ちゃんを見てて、赤ちゃんが自然にあの形で座るのか、と考えると、そこまでナチュラルな座り方ではないような気もするんです。ただ、仏像を見ていると、あの坐っている姿は確かに美しいものです。

一照 多分それは、素朴な坐りからだんだん深まりというか洗練のプロセスがあって、最終的にああいう形になったんじゃないですかね。脚をきっちり組んだり、手を特定の形で組むというのは、坐を徹底しようとする探究の結果だと思います。人間は基本的に、赤ちゃんが坐っている、ああいう坐り方が一番楽だということがあるわけですよ。何にも工夫もなくて、ただ端的に楽に坐っているとああいう形になる。それが原型としてあって、その後に工夫が加わって坐禅の形になったと思うんです。

稲葉 身体や骨の構造だけで坐っている。

一照 そうそう。体の自然な働きだけで無造作に無作為に坐っている。ブッダが瞑想と苦行を止めて木の下に坐ろうと思った時に、自分が幼い時に誰にも教わらずなにげなく坐った時のことを思い出して、あの時の坐こそ目覚めへの道ではないか、というふうに直感して、坐ったわけですよね。あのエピソードは僕はとても意味が深いものだと思っているんです。出来合いの坐り方を先生に習ってそれをやったわけでもない。誰にも習わなくて、ただ群衆がワイワイ騒いでいるところにいたくなくなって、一人で静かに坐りたいと思って、木の陰に行って坐ったら、自然に初禅と言われている瞑想状態に入ったということを思い出した。そして、それが彼の覚りの契機になった。ブッダが幼いころに坐ったその坐りは、たぶん人為的なテクニックとかじゃなくて、単純素朴な自然の坐りだったと思うんですが、ただ一人になって静かに自分そのものでいたい、そういう内面からの促しみたいなものは、誰でも人間の中にはあるんじゃないでしょうか。

そういう促しの表現として坐るというのが坐禅の本質だと思います。脚を組むとか、手を組むというようなことはその上でのこと。ブッダの頃にはすでに今の坐禅の形が出来上がっていて、坐法の標準形のようにして伝えられていたと思います。ですから、ブッダ以外にも、多分みんなあのように坐ったと思うんですけど、ブッダの革新的なところは、その坐ることへの意味付けが全然違っていたということです。形は似ていても、坐の文脈とか方向性が革新的だった。

稲葉 坐禅の形や技術よりも、座ることの意味づけ、というシンプルなことが、ブッダをブッダたらしめた、ということですかね。

一照 坐るという営みのそもそものコンテスクト自体がガラっと変わったんじゃないでしょうか。あの姿勢で坐るという営みをどういうふうに位置づけ、方向づけるか。姿勢は同じだけど、向いている向きが全然違う。それまでは二次元の中で坐っていたことを、三次元の中でまったく新たに理解するといえばいいのか、次元が変わる、あるいは一つ新たな次元が加わって世界の眺めが変わるくらいの革新性があったんじゃないか、って思うんですね。だから僕は「パラダイムシフト」って言ってるんですけど。その革新性のことをいろいろな言葉で語ったことが、後に仏教と言われるものになったんじゃないかな、と思うんですよ。いつでもそこ(ブッダの樹下の打坐)に帰っていくと、コンコンと湧き出る泉のように、今の僕らにとっても、意味のあるメッセージをそこから汲み取って来れるんではないかと僕は思っています。

稲葉 僕が赤ちゃんを見ていて改めて驚くのは、大人はみんな首がすわっているけど、それだけで実はすごいことなんだということです。みんな当たり前に「首がすわっている」けれども、それは身体のなかで無意識化されている作業で、最初は誰もできないわけですよね。人間の成長や学習とはすごいものだと気づかされます。胎児から赤ちゃんへ、赤ちゃんからこども、大人、老人へ、というのも成長であり成熟ですし、変化し続ける存在でもありますよね。それは仏教の諸行無常にも通じます。そして、人間という種が生まれるまでにも、爬虫類、両生類、魚類、単細胞生物、、、そういうあらゆる形態を経過してきて生まれてきたという生命の歴史も感動します。そうした歴史性のなかに、人体の巧妙な仕組みもあるわけです。そうした埋もれた歴史への眼差しはどうしても忘れやすいものです。西洋医学でもそうした歴史的経緯への尊重を忘れてしまうと、ただ直せばいい、という修理のような発想になってしまう。腰が痛い、と言うときにも、人体の全体の構造の中のバランスとして腰を見る必要があるわけですよね。患者さんが言っていることは、一番目立ったり痛かったりするものに注意が向いているだけで、もっと話を聞いていると、いろんな場所の不具合が起きていることはよくあることです。腰痛として感じるということは、腰が全体のバランスのなかで弱かったり感受性が高かったり、部分を酷使したからこそ痛い、という結果が起きる。その結果に至るまで様々なプロセスを経ている。だからこそ、人間の構造や人体のルーツを学ぶことが、医療の一番中核にあるべきじゃないかと思ってますね。僕はむしろ医療の土台作り、土壌づくりをやりたいんです。人間や生命の土壌土を耕すような仕事にこそ、取組みたいのです。例えば、自分の専門は心臓です。心臓という部分を入り口にして、体全体の中でどのように意味があるのか、引いては人生全体の中で意味があるのか、そういうことを対話のなかで模索していくことは、外来などでいつもやっています。

一照 一つの統合されたシステムの一部として心臓を見ていくっていうことですね。


稲葉 そういうふうに考えていますね。西洋医学は、はっきりと原因が特定されて一対一の因果関係にあるものや、急性期医療の対応にはすごく得意なんですよね。ただ、その威力が余りにも大きすぎて、過剰に西洋医学だけに頼る現状ができてしまった。慢性期の病気、長期的な問題、複雑な要素が絡み合っている問題も、全て西洋医学のアナロジーで解決しようとしてしまったことが、いろんな無理が起きているんじゃないかと思っています。無理やり単一の原因で説明して合理化しようとしてしまうように。ただ、代替医療や統合医療の人たちが目くじらを立てていうほど西洋医学は悪いものではありません。使い方次第なんです。適材適所です。両方の世界に足をまたいでいる人間としては、そういう異なる体の見方も、協力して手を繋いでいければいいんじゃないかって思うんですよね。これは現場で働いている肌感覚として感じますね。

一照 そうですね、いったん確立した自分たちの立場から外に出るってなかなか難しいのかもしれないですね。違っているからって喧嘩する必要はなくて、違っているから会話がダイナミックになって面白くなるっていうことがある。


稲葉 そうですね。家族や夫婦の話でもそうですが、自分と異質だからこそいらっとすることもあるし、考えがぶつかることもある。でも、対立で終わるのではなく、そこから新しい道を共に探していく、という在り方こそが大事ですよね。もちろん、それは互いが同じような思いを共有していることも前提になるわけですが、相手のことよりも、まず自分自身が、という思いがあります。

一照 対立する価値観のなかでどちらかが勝つという話じゃなくて、それまでになかった新しい価値観が創発的に生まれる。それはビジネスでもたぶんそうだと思いますよね。


稲葉 そうですね、だから本来のビジネスや商売、マーケット、資本主義には、もっと違う可能性もあると思います。ビジネスであろうと医療であろうと、そもそもの前提の考え方が違う方向へ向かってしまうと、人と戦ったり、争い合ったりす、阻害しあったりする手段として使われてしまいます。どういう考え方で今ある資源を使っていくか、どういう方向へ発展させていくのか、ということこそが一番大事なことだと思います。競争原理や対立原理ではなく、調和や協力原理へ、という人類の未来を考えると、仏教には可能性を感じますね。仏教にも宗教戦争は多少あったかもしれないけど、他に比べると仏教の原理上、起きにくい考え方を持っている。いろんな宗教の中でもちょっと異質なものとして、仏教にはみんなが可能性を感じているように思います。科学との親和性も近いですし。


一照 そうです。その辺のことをもう少しちゃんと自覚して、前面に出す、はっきりさせていく、っていうのは必要なことだと思いますね。


稲葉 それを本当に感じていますね。日本では、小中学校で宗教の教育をうけませんよね。だからなのか、宗教というものにかなりアレルギーがあるように思います。危険で怪しいものだ、と。でも、無知こそが一番危ないです。宗教を必要とするのは、本当に突発的で危機的な状況ですから。そうした多様な宗教の中でも、仏教ってかなり面白いんじゃないか、って思っていると思います。だから、一照さんにも人気と注目が集まっているわけです。仏教の表面ではなく、その本質をこそ取り組もうとされていますし。

一照 僕は、仏教の面白さとか、有効性とか、先進性みたいなのを、今の人たちに分かる言葉で語るっていうのを一つの問題意識としてやっています。もう一つは、一見すると仏教じゃない、みんなが思っている仏教のようには全然見えないんだけど、実はそれは仏教そのものだったんだみたいなことを言っていきたい。稲葉さんがお医者さんをしているのは、実は裏返すとそのままで仏教になっているような、稲葉さんがやっていることに仏教を足すんじゃなくて、稲葉さんが今日語ったようなことが仏教なんです、っていうような、そういう話をしたいですね。

稲葉 そこから発見していくっていうことですよね。


一照 そうですね。


2. 自分の芸術性や創造性を、日常の中で見出す

稲葉 禅はそういう要素が大きいですよね。掃除や食事など、日常の営みの動作をこそ大切にして真理に至っていく。ありふれた日常の中にこそ真理を発見していく。

一照 茶道とか華道みたいな「○○道」みたいなやつはまさにそうで、お茶を点てたり、花を生けることが、そのまま即、禅になっている。禅とお茶、みたいに足し算じゃなくて、掛け算といったらいいのか、お茶の中に禅がすっぽり隠れてている、みたいな。禅とお茶、じゃなくて、お茶が禅。

稲葉 そうですよね、そういう単純な行為をこそ深めていったところがありますよね。

一照 禅が禅であることを完全に隠して、お茶を点てて飲むところに100%顕現してるっていうか、お花を活けることを、禅で解釈して高尚なものにしようとするんじゃなくて、それが禅そのものです、終わり、みたいな形で。


稲葉 岡倉天心なんかも茶の本のなかで、茶道は美の宗教であるということを言っていますね。日本は、宗教をつくることよりも、「・・・道」をつくっていく。宗教が持つ副作用や毒を中和させながら、発展させていったところがあると思います。それは禅の本質とも通じると思います。


一照 稲葉さんが、「お祭りもれっきとした医療行為なんだ」っていうことを言っていますが、あれがまさに僕のイメージなんですよ。お祭りはとても医療に見えないじゃないですか。切ったり、貼ったりもないし、注射も薬も登場してこない、あれのどこが医療ですかって、普通は思いますよね。でも、実は医療なんだ、っていうのが稲葉さんでしょ。




稲葉 そうですね。そういう秘された本質を発見していくっていうのが医療のプロでもあると思います。全体性のなかにそういう要素が必ずあるからこそ、大切にする。もちろん部分のピースだけを抜きとってしまうと全く別ものに変容すると思いますが、全体性の中にこそ、いろんな民衆の知恵が塊となって受け継がれているって感じるんですよね。

一照 民芸運動でも、名もない人が作った何の変哲もない日常の道具に美を見出しますよね。美っていうものがこういうものだって思われているのに対して、いや、これもれっきとした美なんだ、っていう主張です。あれも、僕はとても参考になっています。

稲葉 見立てていくっていう世界ですよね。僕もそういう「見立て」を大切にしています。だからこそ、医療と芸術の接点を感じるんですよね。「見立てる」ことで日常が美に変容していくことと、医療的なものとして「見立て」ていく作業は自分にとって近いんです。芸術というと絵を描いたり音楽をつくることに限定されることが多いんですけど、創造行為は日々の日常のなかにあるわけですよね。生きること自体がそうです。常に創意工夫して日々を創造していけるのかどうか、それは芸術の原点でもあると思います。だから、日常のなかに自分の創造性を発揮して芸術や美を見出すことも、その人の心や生命の全体性の成熟にとって大事なことなんじゃないかと思います。

一照 それまで見えなかったつながりを発見することで、どんどん深まっていくっていうことはきっとあると思うんです。だから、発見して終わりじゃなくて、発見することでどんどんどんその創造が起きてくる、みたいな展開がいろんな領域で起きればいいですよね。今、僕らはなんでもカテゴリーに分けすぎていて、これは医療、これは宗教、みたいな感じで、これから外れたら宗教じゃないみたいに、あたかも理科、数学、国語みたいな感じで、知識に別々のバスケットがあるように思っている。でも、本当のものはそんな区別なんかとっぱらったところにあるんじゃないか。僕は昔から、文系・理系とかそういう科目みたいなものに分けて教育するのはナンセンスだと思っているんですけどね。



3. 問題を解決したいんだったら、前提から崩して考える

稲葉 自分はジャンルを植物的なイメージでとらえています。根っこがあって、そこから枝分かれしていく。そしその枝同士はお互いからみあって、相互に支え合っている、というような。根っこやルーツををたどっていくと、そこには共通したものもある。僕は植物モデルで物事を考えていることが多いです。

一照 ツリー構造みたいなもの?

稲葉 樹形図とも言いますよね。枝葉が違って、違う花が咲いて違う果実が実っていても、存在の在り方は共通していて、同じ土壌から成長している。積み木を重ねるようなブロック構造で仕事や役割を考えていくと、互いの職域は最初が分離していると、永遠に交わらない。今解決できないと思われている問題は、そもそもの原理上の問題になっていたりすることもあると思います。カテゴリーエラーのようなもので。最初が分離していることが問題で、異なる領域が繋がって手を結べば、実はいとも簡単に物事が解決するということは多い気がします。本当に問題を解決する場合、そもそもの前提から考えなおしていかないと、袋小路の中でグルグル同じ場所を回って、大変だ、大変だ、と言っているだけになりかねない。そもそものスタート地点に大きな問題を抱えているということは多いと思います。


一照 そうでしょうね。ブロックに切り分けて専門化するところから出てきた問題なんだから、専門化した状態のままでは解けないっていうところがあるんでしょうね。

稲葉 仏教はそもそもという前提の問題や、言語が持つパラドックスなどを的確に突いていますよね。大前提となるもの、物事のフレームワーク、自分が見ている色眼鏡のフィルター、そういう見落としやすい単純なことをこそ問題として取り上げていると思います。仏教が医学と繋がる接点があるとしたら、僕はそういう人間というシステムの問題や、人間と言うシステムが成長共に変化していく、そういう人間そもそもがはらむ問題になると思いますね。私達は誰もが赤ちゃんから、全く何もない状態から始まって育っていく。そういう生命の土台のところからひとつひとつ考えていくことは、仏教で扱っている人間の本質の問題と大きく関わることだと思います。

一照 身近に絶好の観察の対象といったらおかしいけど、ご自分の分身も生まれて、これから稲葉さんのそういう問題意識がもっと面白くリッチに深まっていくのを期待しています。そこから生まれるいろんな洞察とか発見を、是非、磨塼寺のほうにもシェアして頂ければと思います。


稲葉 そうですね。発見しようという心さえあれば、赤ちゃんじゃなくて子供でも、おじいちゃんでも、おばあちゃんでも、あらゆる現象から発見できると思うんですよね。発見しようという心こそが大事なんじゃないかって、医療を鏡にして思います。そこはたぶん仏教的な方向性とも通じるんじゃないかと思います。そういう発見していく楽しさということを一照さんの活動からも感じますし、そこに共鳴します。常に学び続けているすごいなと思いますし、本当に尊敬しています。


一照 いや、僕の場合は、子供が何で?何で?って知りたがってるのと変わらないレベルですから。単なる知りたがり屋なんですよ。

稲葉 それこそがすごいことなんですよね。だから、ぜひ今後とも一緒に協力していければと思いますし、色々と学ばせてください。

一照 今日はどうもありがとうございました。

稲葉 ありがとうございました。

(偶然にもお互いお揃いのシャツで)

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今回の対談のキーワードであった「関係性のネットワーク」をテーマに、藤田一照が稲葉俊郎氏をお迎えしたイベントを開催いたします(10/24(火)19:00〜)。イベントでは、今回の対談を拡張したトークライブの他、「関係性のネットワーク」を参加者が体感できるワークを行います。お申込みはこちら。
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