【対談】稲葉俊郎✕藤田一照①|縁起のネットワーク〜関係性とは自分で発見しにいくもの
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2017/09/22 07:28

【対談】稲葉俊郎✕藤田一照①|縁起のネットワーク〜関係性とは自分で発見しにいくもの

東大病院の医師でありながら、伝統芸能、芸術、民俗学など、未来の医療と社会の創発のため、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行っている稲葉俊郎さん。今年お子さんが誕生した稲葉さんのお話しを切り口に、「性」や「自然の叡智」などについて、両者が大胆に迫っていきます。
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1. 関係性とは、人に教えられるものではなく、自分で発見しにいくもの

藤田 一照(以下、一照) 稲葉さん、つい最近お子さんが生まれたそうで、おめでとうございます。名前はつけられたんですか?

稲葉 俊郎(以下、稲葉) つけました。

一照 なんていう名前ですか?

稲葉 寿太郎っていいます。

一照 あのポーツマス条約の調印をした小村寿太郎と同じ字で、寿太郎?

稲葉 そうです。偶然ひいおじいちゃんと同じなんです。

一照 え、まったくの偶然なんですか?

稲葉 偶然も偶然ですよ。でもこういうのにやっぱり偶然ってないんでしょうね。初めて聞きましたよ、ひいおじいちゃんの名前が寿太郎さんだって。一照さんだってひいおじいさんのこと知ってますか?

一照 全然、知りません。もちろん名前も知らないです。

稲葉 何をしてたかすらいまだによく知らないんですよ。おじいさんがギリギリですよね。ひいおじいさんになるとほぼ伝説の域に達してくるというか。その名前と同じなんです。

一照 お子さんの名前として、ふっと浮かんできたんですか?

稲葉 そうなんですよ。だから最初、自分自身がええっ!って一番驚きました。寿太郎って響きが古い名前ですし、なぜ突然そういう名前が浮かんできたのか分かりませんでしたが、疑いようのない確信のようなものでしたね。

一照 はい、最近の名前は音に凝ったものが多くて、外国の名前みたいな音にかなり無理して漢字を当てたのが流行りみたいです。寿太郎っていうのは、どうしたって昔風の名前に聞こえますね。

稲葉 ふっと湧いた名前です。でも、自分がひいおじいさんの名前と同じだと気づいたからそこに何か関係性があるんだって気づいただけで、気づかなかったらそこに意味は見いだせなかったわけですよね。そういうことって結構大事なことだと思ってるんです。関係性や意味っていうのは自分で発見しにいく必要がある。本当はあらゆる物事にはいろんな関係性が響きあう、仏教でいう縁起のネットワークがあるんです。それって誰かが教えてくれるものじゃなくて、自分が発見しにいかなきゃいけないものじゃないですかね。そういうことは常に感じていることなので、この名前はどこからやってきたんだろうって思っていたら、ひいおじいいさんと一緒の名前だってことに気づくことができた。でもそういうことってみんなあるんだと思いますよね。気づいていないだけで。

一照 そういう、意味深なつながりって別に特殊なことじゃなくて、実はそっちのほうが普通で、この世界は当たり前にいつでもそういう意味深なつながりのなかで動いているっていうのが本当じゃないかってことですね。

稲葉 はい。関係性があることが大前提なんですけど、今はつながりを発見しにくくなっていたり、もしくはそういうことに対して価値を感じない人が増えたのかなって。仏教用語で言われる慈悲や、縁起の関係性っていうのは、人間という生命体が生存するためにも極めて大事なことですよね。生命が存続する前提に近いものです。日常用語で言うと、相手を思いやる、関係性を大切にするってことでしょうか。でも、都市生活ではつながりや関係性を忘れやすいじゃないですか。どんどん都市化していく中で関係性が分からなくなって殺伐としていきます。ただ、危機的状況では誰でも助け合いますよね。だけど、日常では疎外しあったり、邪魔しあう関係性が生まれてしまう。小さな争いが戦争にまで発展することもある。そういう人間の複雑さも考えると、愛や調和だけで説明できない矛盾をはらんでいるからこそ、人間は面白いし、色々な人生の陰影も生まれるのかな、と思いますね。


2. 知的ゲームとしての仏教、生理的な営みとしての坐禅

一照 生まれたばかりの赤ちゃんとか見てると、あたりまえのことなんですけど、人間はやっぱり生き物だなっていう感じがつくづくするんですよ。僕らはどこまでいっても生き物としての人間なんだっていう風に思い知らされるっていう感じがする。僕らの元の姿みたいなものがそこに見えるからでしょうね。だから、これからの仏教の考えの中に、人が生き物であるっていうことをあらためて中心に置かないといかないといけないんじゃないかと思うんです。「衆生」という仏教の言葉は、「いろいろな形態をした生きもの」って意味ですから、そういう発想がなかったわけではないけど、もう一回新鮮にそれを思い出す。今は西洋の生物学、たとえば進化の理論とか、動物行動学とか面白い分野がいっぱいあるじゃないですか。稲葉さんはそっちの方面に詳しいと思いますけど。そういう方面での人間についての洞察は、どんどん仏教の中に入れていって、今までの教義みたいなものとちゃんと擦り合わせていくというのがこれからの課題じゃないかなと思いますね。いにしえの仏教が現代の科学によってチャレンジされて、アップデートされる必要がある。ダライ・ラマさんも言ったそうじゃないですか。もし科学と仏教が違うことを言った場合は、わたしは仏教を捨てて科学を取る、って発言しているのが、どこかに引用されてましたけどね。

稲葉 ブッダっていう実在の人がいて、文章は残さなかったけれどもいろんな教えを受けた人が記憶して受け継がれ続けて、伝言ゲームの末に文字情報になったわけじゃないですか。情報とか文字というのは、ある種の永遠性っていうか不死性を持ちますよね。その変わらない文字情報化された仏教の壮大な体系があって、いろんな人が注釈をつける形でどんどん増えていったわけですけど。

一照 その途上では、ブッダが言ってないことも言ったことにしたり、ということももちろんあったかもしれない(笑)。

稲葉 拡大解釈になったり、誤解も含めて混ざっていたり、その時代なりに言い換えたりっていうことがどんどんあって当たり前なのだと思います。ただ、そうした文字情報と、身体を伴うものは違います。坐禅とかまさに全身を使いますし、頭で考えたイメージではなくて、極めて生理的な営みが混ざってきますよね。例えば、坐禅しているときもトイレに行きたくなるわけじゃないですか。肉体の生理的なものを抜きにして、本来の仏教的な身体技法は語れないと思うんですよね。経典などの文字情報だけではなくて。

一照 あくまでも生身の人間がやってることですからね。

稲葉 お腹も空くし、トイレにいきたくなるし、汗もかく。だから、例えば坐禅もそういう人間の生理的なことを抜きにして、頭でかき集めた情報としたものになってしまうと、実態からどんどん離れていくと思います。

一照 そうなると、リアリティーがない感じになってくるかもしれないですね。単なるいいお話しになる。

稲葉 知的ゲームみたいな。知的な好奇心を満たすただのコンテンツみたいに

一照 哲学者を揶揄するのに「アームチェアー・フィロソファー」という言葉があります。肘掛椅子に坐って、生きた現実に関わりのない、頭の中だけで概念や言葉で操作して哲学をやっているっていう批判です。仏教もアームチェアー・ブディズムになっている傾向はかなりあるんじゃないですかね。今のアクチュアルな現代的状況に、仏教っていうのをもう一回リンクさせて、地に足を下ろさせるためには、人間は生き物であるっていうところを押さえておかなくてはいけないと思うんです。

稲葉 そうですね。

3. 予定日より一ヶ月早く、満月の日に誕生。自然の叡智とは。

一照 人間は生き物としては非常に特殊な生存戦略をとった種だと思うんですよ。たとえば、赤ちゃんは他の種に比べて、非常に無力な、何もできない未熟な形で生まれてくる。いわゆる「生理的な早産」と言われていることですね。本当だったらもう一年ぐらいお腹の中にいて、もうすこし成熟してから外に出てくるはずなんだけど、今でも子宮口と頭の大きさがギリギリで、下手すると失敗する場合もなきにしもあらずぐらいの、かなりリスキーな状態なので、それやってると、赤ちゃんが出てこられなくなっちゃう。頭が大きくなりすぎちゃうんです。だから、早く産んどいて、外でじっくり育てるという道を選んだ。そこに家族という問題も出てくる。

稲葉 絶妙さというか、自然な叡智の凄さには、僕も実際にお産を見ていてすごく驚愕したことです。長男は予定日よりも一ヶ月早く生まれてきてるんですけど、満月の時にものすごい強い影響を受けて、突然陣痛が始まってきたんです。特に女性は、月経もそうですけど、月という天体現象と体とが否応なく影響を与え合ってて、強い関係性で結ばれていると思います。陣痛で早く生まれてきたとは言っても、外に出てくる時期としては、子宮の中で大きく育って、ある程度丈夫になってから外に出てきた方がいいのか、むしろある程度弱くても小さい状態で外に出てきた方が出産のときは安全なのか、結局一長一短なんですが、それもすべて含めてベストな選択肢を生命は選んでいるのかな、とさえ思いました。もし産道で物理的に出れなくなったら、昔は帝王切開とかないですから生存に関わりますよね。出口は一個しかない。そこから命がけで出て行くという目的のために、ベストな選択肢を模索し続けて生まれてきたんだ、という感じはしましたね。生命のたくましさに、ただただ驚きました。

一照 人間の勝手な都合じゃなくて、自然のリズムみたいなもので。絶妙のタイミングがあるんでしょうね。

稲葉 生命の生き延びるための知恵の中で、今だっていう千載一遇のチャンスを逃さないタイミングで出てくる。平安時代でも縄文時代でも、人類が700万年前に共通祖先でチンパンジーと分かれてから、延々と繰り返してきた営みのひとコマなんですよね。

一照 ヒトが種として成立してから、途切れることなく繰り返し繰り返し行われてきた営み。

稲葉 病院もないし、助産師もいなかったり、家すらもなかった時代から行われてきているわけじゃないですか。それはすごいなって改めて思いましたね。

一照 ウチの場合は、娘が間に4年おいて二人、生まれたんですけど、一人目は助産師さんのところでやって、二人目は自宅で産んだんです。もちろん、僕が産んだんじゃないんで、出産の経験を話すたびに、ウチの奥さんから、いかにも自分でやったように偉そうに言うわねって皮肉を言われるんですけどね。僕は大学院で博士課程に進んだころから赤ちゃんを研究し始めて、もし自分の子が生まれるんだったら、なるべく人類が種として成立した頃と変わらないプリミティブなやり方で、あくまでも動物として産めるようなセッティングで子どもを産んでみたいっていう風にずっと思っていたんです。猫でも犬でも、助産師さんなしでなんなく産んでて、ちゃんと育ててるわけですよね。だから、人間でも、そんなおおごとじゃなくて病院なんかに行かなくたってできるはずだと思っていました。というのが一つと、妊娠・出産は全然病気なんかじゃないのになんで、病院で取り上げられなきゃいけないのかって思っていましたね。たまたま野口整体の野口晴哉(はるちか)さんの『育児の本』とか『誕生前後の生活』という本に出会って、それを結婚する前に読んでたんです。だから、もし結婚して子供できたら、この野口整体式のやり方で出産してみたい、って思ってたんですね。幸い、そういうことを理解して、やってくれる人と結婚できてよかった(笑)。願いがかないましたから。

稲葉 病院で産むのはそもそもおかしいって自分も思います。そもそも「病気」ではないのに「病院」はないだろうと、いつも思います。ただ、色々な蓄積の中でこの形になったのだろうとも思いますから、もちろん全否定するものではありません。逆に、病院で産まなかった時代には、もっと赤ちゃんが亡くなっていたのかなって思いますね。出産で生き延びれる赤ちゃんじゃないと、その後も生き延びることが難しかったのかもしれません。生きること、死ぬこと、そういう見方は大きく違ってたんでしょうね。出産だけではなく、性・セックスの問題も、昔は全く観方で捉えていてだろうと思います。産むのも命がけだし、生まれたとしても死んでしまうことも受け入れざるを得ないこととして。日々が命がけだったんでしょう。僕も子供が生まれて一週間目なんですけど、七日目に名前をつける命名の儀式っていうのがあって。昔は一週間目まで生きられない子が結構いたから、一週間生存できたのならある程度生き残れるだろう、ということで、その一週間を境にして名前を授ける、という経緯もあったんだと思います。

一照 ブッダのお母さんも多分、彼を産む時にいろいろ問題が起きたんでしょうね。たぶん産じょく熱とか色々なことがあって、彼を産んで間もなく亡くなっていますね。やっぱり出産というのはリスクが伴うものなんでしょう。

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対談のキーワード「関係性のネットワーク」をテーマに、藤田一照が稲葉俊郎氏をお迎えしたイベントを開催いたします(10/24(火)19:00〜)。イベントでは、今回の対談を拡張したトークライブの他、「関係性のネットワーク」を参加者が体感できるワークを行います。お申込みはこちら。
http://peatix.com/event/300397


次の記事…【対談】稲葉俊郎✕藤田一照②|新しい価値観の創出・問題解決〜ビジネスにおける仏教の可能性〜(9/28(金)公開)


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