【坐禅講義29】第ニ講:調身―坐蒲の上の統一感
藤田 一照 藤田 一照
2017/09/22 07:20

【坐禅講義29】第ニ講:調身―坐蒲の上の統一感

下半身の急所は骨盤ですし、上半身の急所は頭と首の接合部です。そしてその二つの急所をどう脊椎でつなぐかということになります。この課題をどう遂行していくかという方向でからだの各部を相互に調整していくのです。ですから各部の位置や角度はいつでも仮のもの、一時的なものだということになります。相互調整の過程でいつでも変更がきくようにかなりの程度の自由度を確保しておかなければなりません。からだがよくほぐれていなければならないというのはそのためです。かたく固まっていたのでは動きようがありません。

たとえばその調整の過程で手の位置も肘や肩との関係で最初に置いた場所とは微妙に違ったところまで動いていくかもしれないということです。あるいは、目に関してもよく「視線を四十五度下に落とす」とか「一メートル先を見つめる」とか言われていますが、こういう言い方は間違いの元です。目をどうするかということは目だけの問題として決められることではなく、全身の、特に腰の(実はこころのあり方も決定的に重要なのですが)あり方との関係で考えていかなければならないことなのです。もちろん、舌の位置だって同じように全身のあり方との関係で見ていかなくてはならないことは言うまでもありません。

こうした全身に及ぶ微細な調整は、意識でいちいち命令を下してやっていくのではありません。意識も働いてはいますが、主に活躍するのはからだに備わっている自動的な調整作用なのです。意識がはっきり覚めてからだがどのような状態になっているかを見守っていると、からだの方でそれに応答するように何らかの動きが自ずと生まれてきます。これは頭で考え出した動きではなく自然に発現してくる自発的な動きです。その動きを邪魔したりコントロールしようとしたりしないで、そういう動きを許すのです。それはどこかの部分だけが動くような局部的動きではなくあらゆる部分が協調して動く全身運動になります。

こうして各部分が相互に折り合って全体としてまとまりがよくなってくるにつれて、「こなれた」坐相になってきます。部分と部分の境目が消えて全身が融けあい、ある独特の味わいを持った「統一感」、「一如感」が自然に感じられるようになります。そしてそれが次第に深まっていきます。からだの各部分が坐相という一つの全体の中に静かに帰入して「おさまるべきところにおさまった」という感触です。その感触をもっと具体的に言ってみるとこうなります。下腹部の中心あたり、古来より臍下丹田と呼ばれてきたあたりを中心にある充実感が感じられ、その感じがそこから放射して全身を一つのまとまりとして統一している。上に向かうにしたがってその感じはだんだん淡くなっていき、大きな空間が開けているように感じられる……。これはわたしの主観的な感じ方ですが、東洋医学で「人間が本来の力を一番発揮できる状態」と言われている「上虚下実(上半身の力が抜けていて、下半身が実していること)」の状態にあたります。

こうしたからだの中身の状態(快・不快、重力との関係、筋肉の緊張状態、姿勢など)に対する感覚は、内触覚といわれる体性深部感覚(筋、腱、関節からの感覚)や内臓感覚を通して感得されます。視覚や聴覚などの外界の情報を受容する外界受容器に対して、からだの中身を感受する「内界受容器」というものがからだのいたるところにあるのです。調身が全一的に行なわれるには、内界受容器を鋭敏(過敏とは違います。過敏はある意味で鈍感と同じです)に働かせてまるごと全身の様子を「一目で」感じながら、個々の部分が連動して動いていけるような条件を整える必要があります。そのための基本的条件が深いリラクセーションなのです(ここでいうリラクセーションは全身が脱力してぐんにゃりとなることではありません。ゆるむべきところはゆるみ、緊張すべきところは適度に緊張しているバランスの取れたリラクセーションです)。

坐禅において感じられる統一感、一如感は固定的なものではなく、そのときそのときの坐相の正確度、内界受容器の感度など様々な条件によってたえず揺らぎ、微妙に変化し続けています。それは坐禅している当人がからだ全体でなんとなく感じる流動的な感触です。痛みとかかゆみのようにからだのどこか特定の場所に局在的に明瞭に感じられる感覚とは違って、からだ全体に拡散しているあいまいで捉えがたい感覚です。こうした感覚に対する感受性を高めていかなければ調身を深めていくことはできません。こういう感覚を手がかりにして、それに導かれて調身のレベルが上がっていくからです。ですから調身のポイントは、外から眺めた外観の美しさももちろん大切ですが、それよりももっと重要なのは、こうした内的感受性によって内観されるからだの中身の状態の方なのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
この部分を書いたのはずいぶん前になりますが、今の時点で読み返しても、われながらいいこと書いているなあと思います(笑)。今もこれ以上のことは言えそうにありません。一番根っこのところで調身のガイドをしてくれるのは、どこそこにあると特定して言うことができないような、からだの内外に漂っている、或るあわ(淡)い〈感じ〉なのです。おそらくですが、その〈感じ〉を生みだす特別の感覚器官があるのではなく、いろいろな感覚情報のあわい(間)の中から、創発的に立ち上がってくるコラージュ、ミラージュのようなものあのではないでしょうか?

The less we do, the deeper we see(こちらがすることを少なくすればするほど、より深いところが見えてくる)という言葉を、アメリカで受けたアレクサンダー・テクニークのレッスンで教わりました。こういう繊細な感覚の世界に目を開かれていくことが、坐禅の面白さなのだと思います。


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