【坐禅講義28】第ニ講:全一的調身へ
藤田 一照 藤田 一照
2017/09/15 07:32

【坐禅講義28】第ニ講:全一的調身へ

ここでの問題の一つは、ばらばらな諸部分を合わせて全体を作ろうとするというやり方にあります。人間のからだは部分の単なるよせ集めではなく、一つの有機的統一体です。ですからからだの一箇所でも動かそうものなら、それがどんなに微妙な動きであってもからだ全体がそれに連動して動くようにできています。「操体法」という健康法の創始者である橋本敬三氏は、これを「同時相関・連動の法則」とよんでいます。
 
たとえば、足の親指だけを動かしてみるとその親指だけが動いているように見えます。では今度は誰かに親指をぎゅっと握ってもらい動かないようにしてもらった状態で、無理矢理その親指を動かそうとしてみてください。すると足首関節、股関節、仙腸関節、骨盤、脊椎、頸椎、頭蓋骨にまで力が入って動き出し、さらには顔面の表情筋や上肢の各関節、指先にいたるまで、要するに全身が相関して動き出します。この実験からもわかるように、一関節の動きと言えども、その動きは隣接している関節に連鎖的な運動を引き起こし、その結果全身に波及していくのです。つまりからだの一箇所だけを他から切り離して、そこだけを他の部分と無関係に扱うわけにはいかないということです。こういうあり方をここでは「全一性」と呼ぶことにします。

この全一性を視覚的にわかりやすく示すためにわたしが使っているのが「ホバーマン・スフィア」というおもちゃです。これはチャック・ホバーマンというアメリカ人建造物デザイナーが考案したもので、小さくたたまれたイガグリ状態から一瞬にして大きな球体に広がります。カラフルなプラスティックの辺とそれをつなげているジョイントからできた多面体で、指先でつまんで自由自在にたたんだり広げたりできます。このおもちゃはどこをつまんで動かそうとしても必ず全体が一緒に動くのです。そこだけを独立に動かすことはできません。まさに全一的なおもちゃです。人間の身体も本来はこういうあり方をしているのです。

坐禅の実践においては人間の生きたからだはもともとこのような全一性を備えているということを念頭にしっかりおかなければなりません。たとえば、坐禅の姿勢を修正するときには、しばしば問題とされる部分だけを直すようなことをしますが、その部分の修正の影響はそこだけにとどまらず、「連動の法則」によって必然的に全身に及んでしまいます。その結果、一部分の改善が別な部分の改悪に繫がることにもなりかねません。それに姿勢が全体として正されない限り、局所的な修正は遅かれ早かれ元の状態に戻ってしまいますから、しょせん一時的なものにとどまります。

坐禅の全一性ということを考えると、からだの各部分に対する個別的な指示にしたがって調身し(姿勢を調え)、それがすんでから息についての指示にしたがって調息し(呼吸を調え)、最後にこころについての指示にしたがって調心する(こころを調える)というよく行なわれている坐禅のやり方の問題性が浮かびあがってきます。

まず、調身ですが、足、脚、腰、胴体、腕、手、首、頭といったからだの各部への指示を一つ一つばらばらにやっていったのでは全一の姿勢は生まれてきません。そういう坐禅だと、あたかもからだの各部分がみんな身勝手な自己主張をして言い争いを始めたり、あらゆる部分が自分の居心地の悪さに文句や悲鳴を上げているように感じられます。「おれはここに居たいのにどうしておまえはおれを引っ張るんだ!」、「わたしはこんな場所にはいたくない、あっちの方がいい!」……という具合です。たとえ一つ一つの指示を守れたとしても、からだの各部分がよそよそしい間柄にあるようでは「まとまりのない」あるいは「おさまりの悪い」坐禅というしかなく、調身とは程遠いものです。全一的な調身を行なうには、からだのどこをどう動かせばどこにどのような影響が及ぶか、どの部分とどの部分がどのように連動しているか、といった「同時相関・連動の法則」や姿勢の急所やツボについての、いわば「からだの文法」とでもいうべきものを体得していく努力が必要です。それは「坐禅人のたしなみ」とでもいうべきものです。坐禅をする人が身につけるべき教養とも言えるでしょう。精妙極まりない連動装置をそなえているからだで調身するということがどれほど微妙で奥深いことであるか、また困難なことであるかを知れば、それなりの心構えや稽古をしなければならないのは当たり前です。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
ここで説明している「全一的な坐禅」、「全一的な調身」というアイデアは、橋本敬三さんの操体法と並んで、坐禅をする前から僕が熱心にやっていた野口体操の経験が背景になっています。「首の運動」とか「肩の運動」という具合に、そこで言われている部分、部分を別々に動かすラジオ体操とは異なって、たとえば「腕のぶら下げ」といった、からだの部分の名前を使った呼び名で呼ばれる動きでも、あくまでも全身運動としてやることを大切にするのが野口体操の特徴です。腕が本当にぶらさがれるためには、腕だけの問題では話がすまず、腕の土台になる胴体、それを支える脚、首や頭まで含んだ上でに動きでなければなりません。もっといえば、からだと床のつながり具合だとか、呼吸のあり方、そして心のあり方まで広がっていきます。そういう、全一的なからだ観、動き観を野口体操が拓(ひら)いてくれました。全一的というのは、今の言葉で言えば、ホーリスティックということになるのでしょうか。これは、坐禅にとってとても大切な視点だと思います。


(前の記事)

正会員になると
投稿にコメントすることや、禅コミュニティに参加することができます。
藤田一照への質問および
正会員向け坐禅会に参加することができます。