【坐禅講義27】第ニ講:点を結んで坐禅にしたが……
藤田 一照 藤田 一照
2017/09/08 07:22

【坐禅講義27】第ニ講:点を結んで坐禅にしたが……

数字の番号順に点を結んでいくと最後にある絵が完成する「点つなぎ絵」とか「なぞり絵」と言われているものがありますね。わたしが子供のころには、病院の待合室や理髪店で子供たちが退屈しないように遊ばせるためにそういう絵がよく置いてありました。今でもあるんでしょうか?

坐禅をするというのは、たとえて言うなら自分の身体を使って坐禅の正しい描画を描いていくことだと言えます。手や脚や頭や背中などの身体各部に関する指示はいわば描線を結んでいくための決まった点の位置を指定することに当たります。足、脚、腰、胴体、腕、手、首、頭というふうにそれら各部の位置を指定する点を全部きちんと結んでいけば最後に坐禅の正しい姿がそこにできあがるはずだ……。 
 
わたしはそのころこんなふうに考えていました。内山興正老師から「正しい坐禅をするとは、ただ正しい坐禅の姿勢を筋肉と骨組みをもってねらい、これに全てをまかせきってゆくことである」と教えられ、それをそのように理解していたからです。わたしはさらに、「これまでの坐禅指導ではそういう点の指定の仕方がまだまだ粗すぎる。だから、点と点の間に距離がありすぎてそのあいだの線のつなぎ方がいいかげんになってしまうのだ。だからもっと細かく点を打っていけば、もっと厳密で間違いのない坐禅の絵ができあがるはずだ」と考え、これまでの坐禅指導においては触れられることがあまりなかった点の指定をもっと増やしていこうとしました。

たとえば「両手の親指の先を軽く合わせる、その接触点の位置」だとか「頭と首のつなぎ目」、「顎」、「肩のつけ根」、「肩甲骨」、「横に張ったひじ」、「肋骨」、「骨盤の傾き具合」、「両膝と股関節の関係」、「半眼のまぶたの開き具合」などの正しい位置を指定する点を決定するために、解剖学やいろいろなボディーワーク(身心の変容をもたらすために身体に直接働きかける技法)をかじって、そこからの知見を取り入れようとしました。そしてそれを自分の坐禅で実際に試してみるということもやりました。だんだんそういう情報が集まってきて、この調子で行けばほとんどすきまなく点を並べた完璧に近い坐禅の「点つなぎ絵」ができそうな気がしてきました。

しかしあるとき、坐禅していて愕然と気がつきました。道元禅師の『正法眼蔵随聞記』には「坐はすなわち不為(人間的作為が全くないこと)なり」とあるし、瑩山(けいざん)禅師の『坐禅用心記』には「万事を休息し、諸縁を放下し、一切為さず。六根作すことなし」とあるのに、自分の坐禅は、ここはこうして、あそこはこうして……とまさに作為だらけだし、休息とか放下どころか、あれこれ作すことばかりで忙しいことこの上ない。そういう指定された位置にちゃんとからだの各部分が行っているか、そこからずれていないか、看守のように始終見張っていなければならない。こういう坐り方は根本的に間違いじゃないのか、と。

自分の坐禅の姿を外から第三者がながめるように観察して、正しいとされる坐禅の格好と自分の坐相を比較対照しながら少しずつ修正していき、教えられた(あるいは自分がそうだと思っている)理想形に徐々に近づけていくというのは、道元禅師や瑩山禅師が説いている坐禅のやり方とは根本的に違うのではないのか、釈尊が菩提樹の下で坐禅されたときこんなふうにして坐っていたはずがないじゃないか、自分は坐禅と思いながら実は坐禅とは本質的に別な何かをしているのではないのか。内山老師が言われた「正しい坐禅の姿勢を筋肉と骨組みをもってねらう」というのは、わたしが理解したような「点つなぎ絵」のようなアプローチ、言い換えれば、外側に「正しい坐禅の姿勢」を目標として立てておいて、それを目指して意識的にからだを制御して坐相を作り上げていくようなこととは全然違うのではないか、ということに今更のように思い至り、慌てふためいたのです。

では、点つなぎ、つまり「為」を積み重ねていくのとは全く違うアプローチの坐禅、「不為」である坐禅とはどのようにして可能なのか? そもそもそんなことが可能なのだろうか? わたしは、こういう問題意識をもってあらためて再出発しました。その辺の話がこの講義の焦点の一つになります。さきほどから話題にしている合掌低頭という動作についても、普通の指導のように外から誰にでも一律の指示を与えて他動的にかたちにはめていくやり方ではない教え方、指示に従って意識的にからだを言われる通りに動かしていく、というのではない学び方、行い方があると思うのです。そうでなければ、合掌低頭(がっしょうていず)が打坐と同質のものにはなっていかないでしょう。打坐を不為として成立させなければならないのなら、合掌低頭もまた不為として成立させなければならないはずです。そして、それは合掌に限らず挙措進退(きょそしんたい)動作一般についてもそうでなければならないことになってきます。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・バレーラ『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』(ちくま学芸文庫)に浅田彰さんが序文を書いているのですが、そのなかに「形なき物質に出来合いのパターン(情報)を押しつけることで秩序を形成し、ネガティヴ・フィードバックによって安定的に制御していくという〈他律〉の構図」と「ゆらぎをはらんだ物質の広がりのなかからポジティヴ・フィードバックを通じて、自ずと秩序が形成され、ダイナミックに変容していくという〈自律〉の構図」という比較がなされています。

これは、「オートポイエーシス」という興味深い学問分野での話ですが、一見、坐禅とは何の関係もないようなところで言われていることが、驚くほど坐禅にぴったりあてはまるということを発見するのはとてもうれしいことです。浅田さんの文章を見つけた時がまさにそういう時でした。「オートポイエーシス」は生き物の生きている姿を内側からどうとらえるかということをテーマにしているのですから、そこで考えられていることが、坐禅を機械的なものではなく、生き生きしたものとして描きたいと思っている僕にアッピールしたのは当然といえば当然だったのです。以来、僕はこの分野の発展に関心を抱き続けています。日本には、河本英夫さんというこの分野でのトップランナーがおられるのは、まさに僥倖(ぎょうこう)というしかありません。



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