【坐禅講義26】第ニ講:威儀即仏法
藤田 一照 藤田 一照
2017/09/01 07:23

【坐禅講義26】第ニ講:威儀即仏法

曹洞宗には「威儀即仏法 作法是宗旨(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)」という言葉があります。「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)といわれる日常の立ち居振る舞いの全てが威儀にあふれたものであることがそのまま仏法なのである。だからほかならぬ日々の一挙一動をどう行なうか、それが最も根本の教えなのである」という意味です。ふつう威儀とか作法と聞くと、われわれはたいていの場合いかにもそれらしい、ある型にはまった仰々しいジェスチャーや恰好を思い浮かべます。たとえば、お坊さんや聖職者が儀式のときに見せるような特別なしぐさや、あるいは茶道や華道で道具を扱うときの細かな手順とか特殊なさばき方とかがその例です。そういうときわれわれが注目するのはどうしても外から見えるかたちの方です。だから威儀とか作法ということについて、多くの人は「形式ばった、何か窮屈そうなもの」というイメージを持ってしまうのだと思います。

道元禅師の書かれた『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう 僧堂内における食事の作法)』という書物には合掌の仕方が次のように記されています。「合掌するには指先が鼻の先の高さになるようにしなさい。頭を下げるときは指先も一緒に下がり、頭がまっすぐのときは指先もまっすぐであり、頭が少し傾けば指先もまた少し傾むくのである。合掌のときは腕は襟元に近づけてはいけない。ひじは脇の下につけず、横に張るようにしなさい。……」

合掌というのは身体でそういうかたちを作ることだというわけで、修行道場では新入りのお坊さんたちは先輩の僧から合掌の仕方についてうるさくしつけられます。「そうじゃないだろう!何度言ったらわかるんだっ。こうやって、ひじをぴんと張って、両手を鼻の高さまで上げろ! こうだ、こう。よく見ろ。ちゃんとやれい!」こんなふうに怒鳴られながら教わっているのをわたしはよく見かけました。もっと親切な先輩僧なら、やって見せるだけではなくて手取り足取りして、しかるべきかたちになるように相手の身体に触れて動かしてやりながら正しい位置や角度を教えるかもしれませんね。古来から僧侶たる者は「三千の威儀、八万の細行(細かな作法)」を備えていなければいけないと言われていますから、きっと合掌だけではなく、そのほかのいろいろな動作やしぐさもこういうやり方で教えていくのでしょう。お拝の仕方とか、お経本の持ち方とか、道元禅師はトイレの使い方、顔の洗い方、歯の手入れの仕方、お堂への入り方など実に様々な動作、進退の仕方について実にきめ細かく書かれています。

しかしわたしは、果たしてこういうやり方で威儀のある動作を学ぶことができるのだろうか、身につけることができるのだろうかと疑問に思っているのです。作法というのはこういう方法でしか身につかないものなのでしょうか? たとえば、言われたかたちに寸分たがわないような合掌ができるようになったら、つまりそういう技術が身についたら、それは威儀のある合掌がマスターできたということにして問題はないのでしょうか? こういうやり方というのは、すでにでき上がったものとして存在している完成したかたち、理想のかたち、モデルを手本にしてそれを自分の身体にコピーするというやり方だといえます。合掌するなら、腕のかたちはこうで高さはここ、手のかたちはこうで位置はここ……という具合に、意識主体としてのわたしが身体の部分、部分を操作、コントロールして所定のかたちと位置に持っていって合掌の理想かたちとそっくりなものを自分のからだで作り出すわけです。これはいわば、自分のからだをすでにできている鋳型のなかにはめ込んでいくようなやり方とも言えるでしょう。鋳型そっくりのかたちができあがったら、ハイ、ポン、そこから取り出して一丁上がり、あとは必要なときにはいつも同じようにそれを再現できるようにすれば万事問題なし、というわけです。

坐禅はたくさんある威儀や作法のいわば原型になるものだと思いますが、実は、坐禅の指導や実践もやはりこれとそっくりのやり方、考え方で行われている場合が多いようです。先ほども言ったようにたいてい、坐禅のやり方を初めてならう人は、指導者から「脚はこう組み、手はこういうかたちにして、背中はまっすぐにして顎を引き、口は閉じて舌の先を上の歯のつけ根につけ、眼は一メートルくらい前に落とす、……」という具合に指示を受けながら、自分の身体でそれを実行していきます。まずいところがあれば注意されてそれを直し、言われた通りのかたちになるように極力努力します。背中や腰が丸くなっているのにそれに気がつかないようなら、指導者が後ろから手や警策(坐禅のとき眠りやこころのゆるみをいましめるために右肩を打つ棒のこと)でぐっと押してまっすぐになるように仕向けてくれます。みなさんのなかにも、こういうやり方で坐禅を教わってこられた方が多いのではないかと思います。

しかし今のわたしは、そこには何か大事なことがすっぽり抜け落ちているように思うのです。実はわたし自身もある時点までは、今言ったようなやり方で坐禅の指導をしていました。それが当たり前だと思っていましたから、それ以外に坐禅を指導する方法があるという、その発想すらありませんでした。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
坐禅が既定の形に自分を当てはめるようなものではないということに思いが至ったのは、幸いなことだったと思います。そういう新たな見直しがなければ、坐禅を続けていたとしても、おそらくルーティンワークをこなすような、精彩に欠けたものになっていたような気がします。もしかしたら、飽きてしまってすっかりやめていたかもしれません。それまで自分が坐禅だと思ってやっていたことが実は全然、見当外れだったということがわかって、また新鮮な気持ちで、というよりもまた初めから出直すような気持ちで、取り組めるようになったのです。生来飽きっぽい僕が、いまだに坐禅を続けていられるのは、そういうヴィジョンの転換が起きて以来、いつも初心で坐禅に取り組めるような視点が得られたからです。

アメリカに坐禅を伝える上で大きな貢献をされた、サンフランシスコ禅センターの創設者の有名な言葉、「専門家(エキスパート)の心にはほとんど可能性がない。初心者の心には可能性があふれている」の通り、坐禅はいつも初心者の心で取り組むべきなのです。坐禅に熟練するということは望ましいことではない、というのは興味深いことです。



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