永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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こういう人たちが決まったように一様に聞いてくるある質問があった。

それは「坐ったあと、注意を何に向ければいいのか?坐禅ではこころの対象は何なのか?」ということである。

つまり、まずからだを瞑想姿勢にして坐ったあと、こころはこれから何をすればいいのかという問いである。

わたしは禅堂に住みはじめてまもないころは、こういう質問を受けたとき、「??」という感じであった。

そもそも自分は、「注意を何か特定のものに向ける」、とか「何かを対象にして瞑想する」という発想で坐禅をしてこなかったからである。

むしろそういう人為的なこころの操作を手放すようにと教えられてきていた。

かれらといろいろ議論しているうちに、かれらが持っている修行の枠組み、パラダイム自体が自分のそれとはまったく異なっているらしいということがわかってきた。

坐禅と同じような格好で坐ってはいるが、かれらはさらにそれに加えてこころの中で、何かあらかじめ選んだもの、たとえば鼻孔周辺で感じられる呼吸の出入、特定の場所の身体感覚(たとえば腹部の膨張・収縮)、何らかのイメージ(たとえば菩薩や神々、慈悲を送る他者)といったものを瞑想対象とし、それに持続的な注意を向けるとか観察するといったメンタルな作業をするのが瞑想というものだという前提でそういう質問をしてきているのである。

坐禅にも何かそういうものが当然あるはずで、それはいったい何なのかと尋ねているわけだ。

つまり、数式で表すとかれらにとっては「瞑想=からだでする瞑想姿勢+こころでおこなうメンタルな作業」なのだ。

そして重点が置かれているのは明らかに後者、つまりこころでおこなうメンタルな作業の方だ。

その作業内容の違いに応じて、呼吸瞑想だとかボディ・スキャンだとかラべリング、菩薩の観想というふうに瞑想の種類が区別されている。

結跏趺坐のような坐る姿勢のほうはあくまでもそのメンタルな作業を行うための一条件に過ぎず、せいぜいのところそういうメンタルな作業がやりやすい、メンタルな作業にとって好ましい姿勢であるという意味づけがされている程度なのである。

だから、必ずしも結跏趺坐にこだわる必要はまったくなく、当然、椅子に坐ってやってもかまわない。

たいていの場合、あまり坐相について細かい指示はなされず、stable and comfortable つまり安定していて心地よい姿勢を自分で適当に選ぶように、という言い方がよくなされている。

わたしはいくつかの瞑想センターでの合宿に参加したり、そこへ話に行ったりしたことがあるが、そこで見かけた瞑想修行者やあるいは瞑想指導者たちの坐相は実にさまざまで、日本の禅の修行道場ならきっと修正されるであろうような姿勢で坐っている人もかなり多く見かけた。

ごそごそと動いている人も多い。これは批判として言っているのではなく、かれらにとってはそれで全く問題はないのである。

大事なのは外見的な姿勢云々よりも外からは見えないメンタルな作業の方だからだ。 

一方、只管打坐の坐禅は「坐禅=からだとこころが一如でなされる結跏趺坐」である。

だから、こころをどこに向けるのかと言われても、どこといって限定することができない。

「結跏趺坐で坐っているときに起きていることの全体にこころを尽くしている」と言う以外にはない。坐禅のときは、姿勢だけにこころを向けているという訳ではなく、見えていること、聞こえていること、におってくること、舌で味わっていること(坐禅中は口に何も入っていないのであまりこれは問題にはならないが)、からだで感じられていること、こころに浮かんでくること、つまり六根を通して覚知されているそのときそのときの経験の全体にオープンで受容的な気づきを向けているので、何かその一部を対象として切る取ることはしていない。

だから、坐禅はかれらの枠組み、パラダイムから出てくる、先ほどのような質問への答えをもともと持っていないのである。 

道元禅師は「身の結跏趺坐、心の結跏趺坐、身心の結跏趺坐、身心脱落の結跏趺坐」と言っている。

これは四つの別々なことを言っているのではなく一つの坐禅を四通りの言い方で表現していると理解すべきだ。

つまり、「身の結跏趺坐=心の結跏趺坐=身心の結跏趺坐=身心脱落の結跏趺坐」ということだ。

このような理解の仕方はかれらには全く想定外だったから、なかなか話がかみ合わない感じだった。

しかし、かれらとのそういうやりとりを通して坐禅のユニークさというものを日本にいるときよりはるかに強烈に意識するようになった。

そして、只管打坐の坐禅と他の瞑想法との優劣を競うというのではなく、どこがどう違っているのか、旗色を鮮明にする必要があるという問題意識がだんだん育っていったのである。

最初の頃は「あなたが思っているような、何かの対象に注意を集中するようなことは坐禅ではやらないんですよ。

強いて言うなら、今現在起こっていることのすべてに注意を向けている、という感じですかね。

あるいは、I pay attention to (わたしが〜に注意を向ける)というふうにdo動詞で表現できるような行為というよりもむしろI am just attentive (ただ注意深くある)というふうにbe動詞でしか言えないような、ある状態でいることなんですよ」と言うような言い方をしてその場をしのいでいた感があった。 


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋