(前回の講義)

https://masenji.com/contents/976f40289912

さていよいよ『普勧坐禅儀』の講読も最終回を迎えました。

これが最後の結びの部分です。

「久しく什麼なることを為さば、須らく是れ什麼なるべし。宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん」。

「什麼」という言葉は、『普勧坐禅儀』の前の方にある「什麼の事を得んと欲せば、急に什麼の事を務めよ」という一文にも出ていました。

それと対応しているのです。「什麼」は唐代から使われている俗語で一般的には「かくのごとし」とか「いずれ」、「あれ」、「いかなる」、「何」といった意味ですが、道元は『正法眼蔵 什麼』で「直趣無上菩提、しばらくこれを什麼という」と深い意味に使っています。

ここでは、言葉では表現できない坐禅の修行のことです。

「久しく」というのは、「長い期間にわたって継続して」ということ。

つまり、休むことなくどこまでも坐禅の修行をしなさい、そうすれば必ず什麼の人になるというのです。

什麼の修行の中に、什麼の証があるというのが道元の立場だからです。

そうして、坐禅に功徳によって、自分のうちにある宝の蔵が開き、その中にある宝を自由自在に受け取り、そして用いることができるだろうと結んでいます。

坐禅によって、自利利他の尽きない生活が展開していくのです。

だとすれば、坐禅しないわけにはいかないでしょう。

長らく坐禅の基本聖典の一つである『普勧坐禅儀』を読んできました。

未熟ゆえに、ごく表面的な解釈にとどまってしまいましたが、とりあえずこれで一応読み終わったことにさせていただきます。

次回からは『正法眼蔵 坐禅儀』を読んでいきます。

●今回の動画配信