約1年半に渡って発信してきた「現代坐禅講義」の記事が先週で終了しました。

今月から題材を新たに、永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

題材は新たに、参究は継続して、お届けしていきます。

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世俗的生き方と修道主義的生き方

さて、われわれはやっと釈尊の「菩提樹の下の打坐」にまでたどりついた。

問題はこの打坐がどのようなものであったか、ということだ。

わたしは、釈尊が菩提樹の下で坐った打坐は、それ以前の瞑想や苦行と比べて根本的に異なる営みであったと考えている。

極めてラディカルで革新的な質をもった打坐が人間の歴史の中で初めてそこに出現したのである。

そこから、全く新しい、人間がこの世において幸福に生きる道を説く仏教が誕生することになる。

釈尊における瞑想・苦行から樹下の打坐への転換、シフト(切り替え)、そこでなにが起きたのか、それをどう理解するか?

釈尊の樹下の打坐が持つラディカルさ、革新性、それをどうとらえるか?これはわれわれが只管打坐の坐禅をどう理解し、また実践するかということに直接関わってくる大事な問いかけである。



われわれ坐禅修行者は坐禅をするそのつど、釈尊に起こったこの質的転換を新鮮に再現し、二千五百年前の樹下の打坐が備えていたあの革新性をそのままそっくり現在の自分の打坐の上にもたらすべく工夫努力しなければならない。

さもなければ、釈尊から伝わってきた打坐が、乗り越えられていなければならないはずの瞑想的あるいは苦行的なものにすり替わって行じられる羽目になるだろう。



「菩提樹の下の打坐」のどこがどう革新的だったのか?

この点に関してこれから何回かにわたって、いくつかの切り口で論じていきたいと思っている。

今回は、釈尊の菩提樹下の打坐の特徴を「身心の自ずからなる働きを、意識が人為的にコントロールすることなくそのままに、深く細やかに観じている」こととしてとらえ、その観点から論じることにしたい。



菩提樹の下に打坐する前、釈尊は二つのあり方、生き方を経験してきている。

まず始めに経験したのは王城での世俗的な生き方である。

それは、身・口・意の三業をほとんど無意識のうちに行ってしまっているようなあり方である。

知らない間に身につけた「習慣・習癖」のままに身で行い、口で語り、意で考えて生きている。

それを何の疑問も抱かずあたりまえのように思っているが、いつのまにか外からインストールされたプログラムをそれと知らずに繰り返し実行しているロボットのようなものである。

「自動操縦状態」と言われる自覚、気づきの欠如したあり方だ。

それを仏教では「無明」とよんでいる。



こうした世俗的生き方を厭い、出家という決断をして釈尊が次に選んだのは修道主義的生き方であった。

それは世俗的な生き方を否定するために(あるいは聖なる生き方をするために)、身・口・意の三業すべてを意識で外側から一方的に管理し、コントロールしようとするあり方である。

このあり方ではある理想の状態があらかじめ想定され(たとえば煩悩の滅尽とか解脱など)、その実現のために効果的な洗練された方法やテクニック(瞑想や苦行の行法など)が用意されている。

そしてその方法やテクニックに厳密に従うよう身心が恣意的に操作されることになる。

いわば、野蛮な身心をうまく支配して飼いならそうとするようなものである。



この二つのありかたをもう少しわかりやすくするために息を例にとってみよう。

われわれは通常、自分が普段どのような息をしているか、ということについてまったく自覚がない。

自分はごく普通に息をしていると思い込んでいる。

しかし、その「普通の息」はさまざまな事情によって「本来の自然な息」になっていないことがほとんどなのである。

呼吸法の修練によって本来の自然な息を見出した者から見れば、きわめて不完全で浅く不規則な息だと言わざるを得ないような低いレベルの息なのだ。

そういう不完全な息だからといってすぐに命に関わるわけではないのだが、長い期間にわたってそういう「不自然な息」を「普通」に続けていることからもたらされるさまざまな「症候群」をわれわれは実際のところ患っている。

しかし、そこに自覚がないのでそれが改まる可能性はほとんどない。

これが息に関する「無明的」あり方である。



一方、そういう「普通の」息では健康になれないと考え、なんらかの呼吸法を学んで息を改善しようとする人もいる。

その人は、これこそが理想的な呼吸の仕方をマスターできる最高の呼吸法だと思える方法をあれこれさがして見つけ出し、それを身につけようと懸命の努力をする。

そこでは、どうしてもその方法が優先することになり、その方法に従って息を統制することになる。

その方法が想定している目的通りの息ができるようになれば成功とされるのだが、これでは自然な息ではなく「人工的な息」になってしまうのである。

全身にわたる複雑精巧なメカニズムの働きによってなされているのが呼吸の実態であるから、意識で外側からコントロールできるのは実はそのほんの一部でしかない。

意識で息を変えられると思うのは実は傲慢な幻想であり、このやり方では本当に深いところから息を変容させることはできないのである。

これが息に関する「人為的」あり方である。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋



《藤田一照 一口コメント》 


苦行を放棄した後になされた釈尊の樹下の打坐。

それがいかなる革新性を持ったものであったのか?

その革新性を言葉でどのように表現するか?

それが、日本に帰ってきてから僕が取り組んだテーマの一つでした。

アメリカにいた頃から「只管打坐の坐禅の系譜学」といったものを構想していましたから、