永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」〜「坐禅」をunlearnする〈坐禅〉〜1 】

今この原稿を書く作業と並行して、或る本の再校ゲラのチェックにも追われている。

その本は『〈仏教 3.0〉を哲学する』と題されて九月末までには出版されることになっている。

朝日カルチャーセンター新宿教室を会場にして、この本のタイトルと同じテーマで三回にわたって行われた公開の鼎談がもとになって、できあがったものだ。

そこでは、安泰寺で一緒に出家して以来の法友である、山下良道さん(現在は曹洞宗から離れて「ワンダルマ僧」として独自の道を歩んでいる)、わたしが「哲学する」人として手本にしている哲学者の永井均さん、そしてわたしの三人が、『アップデートする仏教』(幻冬舎新書 わたしと山下良道さんの対談を基にできた本)という本の中に登場してくる〈仏教3.0〉をめぐって、いろいろな角度からの討論を行った。

毎回百名を超す満席状態で、当事者のわれわれもその反響の大きさに驚かされた。


二人の僧侶と公開で仏教についての鼎談をするという、哲学者としては何の義理もメリットもないであろう企てに快く乗ってくださり、フレンドリーにそして真摯に相手をしてくれた永井さんには感謝のしようもない。

わたしは、もともとは哲学をやろうと思って大学に入ったものの、途中で気が変わって発達心理学を専攻したという前歴を持っている。

といっても、哲学への興味を失ったわけではない。

それ以降、現在に至るまで、哲学という人間的営みには並々ならぬ関心を持ってきた。

ある意味では、今自分が禅の修行としてやっていることも、わたし流の哲学の営みだと言ってもいいかもしれない。

そういうわたしにとって、永井均さんのやっている哲学的営為は大きな励ましになってきた。


・「哲学とは、何よりもまずするものであって、学ぶのは二の次でいいのだ、いや二の次でなければ いけないのだ」

・「僕が自分の議論を展開している箇所も、その内容そのものは、本当はどうでもいいのだ。ただ、いわば素手で考えていくやり方のようなものをつかんでもらえば、目的は達せられたことになる。要するに、僕の思想に共鳴しないで、ぼくの思考に共感してほしい」(以上『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書)

・「(哲学は)問いにおいて科学に対立し、答えにおいて宗教と対立する、とも言える。つまり哲学に は二種類の敵がいるわけだ。一方にはそもそもの問いの設定の仕方が非科学的だと言って非難する人がいて、他方には、答え方があ まりに理詰めで人間の機微に触れていないと言って拒否する人がいる」(『哲おじさんと学くん』(日 経プレミアシリーズ)

わたしは、こういうスタンスで哲学する人として、永井さんの著作をずっと愛読してきた。

仏教も、普通に理解されている科学や宗教とは違う、永井さんの言う意味での哲学でなければならないとわたしも考えているからだ。

しかし、まさかそのご本人が朝日カルチャーセンター新宿教室で、自分がやっている実践坐禅学講座の聴講生として現れ、それから間もなく坐禅をめぐる公開の対談をしたり、さらには自分たちが言い出した〈仏教3.0〉という奇妙な言い回しで表される仏教のあり方について、一緒に鼎談することになるとは想像もしていなかった。

そこでの鼎談がどのようなものになったのかに興味がある方は、間もなく出版される上記の本を読んでいただきたい。


アメリカに住んでいる時、The Buddha was not a Buddhist(釈尊は「仏教徒」ではなかった、の意)というセリフをしばしば耳にした。

それは確かにそうだ。

釈尊は出来合いの「仏教」を信奉したのではなく、 自分にとことん考え抜いてみたい問題があって、それを自分の仕方で深く理解しようとしただけだ(それと同じ意味で、イエスは「キリスト教徒」ではなかったし、道元禅師も「曹洞宗僧侶」ではなかったはずだ)。

それをみんなに理解してもらえるような議論として整えたら、それが後に仏教と呼ばれるようになっただけのことだ。

釈尊にとっての仏教は、それ以外の人にとっての仏教とは、その意味で同じではない。

「自分が自分の世界と自分の生を自分の仕方で理解することができたなら、それだけでいいのだ。むしろ、それだけであるほうがほんとうなのだ」(永井均)。

そして、そういう自分の問題と真摯に取り組む努力が「仏教する」ということだ。

ここで仮に、信じるべき、あるいは学ぶべき対象として、自分の向こう側にある、既製品的で他人行儀な仏教を「仏教」と表記し、その人が素朴に素手で「仏教する」ところにのみ立ち現れる自分だけの仏教を〈仏教〉と表記して区別してみよう。

つまり、仏教には「仏教」と〈仏教〉という二つのものがあるということだ。


これは永井さんの「すべてはただ、それぞれの人に考え抜いてみたい問題があるかどうか、につきる。もしあるなら、それを考えればいいし、考えるべきだ。いま、それを〈哲学〉と呼ぶとすれば、それは世の中で認められている「哲学」の概念と一致するかどうかなんて、ぜんぜんどうでもいいことであるはずだ」(『〈子ども〉のための哲学』)という主張に学んだものだ。

この「仏教」と〈仏教〉の区別はとても重要なことのようにわたしには思える。

釈尊にとって仏教は〈仏教〉だった。

では、仏教徒にとって仏教は「仏教」でなければならないのだろうか?

そういう傾向にプロテスト(抗議する、異議申し立てをする)したのが禅ではなかったろうか。

「殺仏殺祖」「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」というひどく物騒な表現が言おうとしたのは、仏教を「仏教」にしてはならない、〈仏教〉でなければならないということだったはずだ。

道元禅師の「仏道をならふといふは自己をならふなり」もまたその文脈で理解できるだろう。

 

 

 

  

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋